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自分に期待しなくなると、言い訳が消えて楽になりました。

好きだったことも、
やってみたいと思って始めたことも、
時間が経って、思うようにいかなく
なると、
環境が…、時間が…、人が…
とかく言い訳が目立つように
なってました。

きっとそんな自分が誘蛾灯と
なって、同じような人が
職場なり、趣味の場なりに
寄ってきたのです。

はたまた、自分が惹きつけられたのか。

なぜやりたくない、と思うようになったか
少し掘り下げて考えてみることにしました。

仕事中です。暇なんです。
だからやるか、やらないかの理由に
気分の「やりたくない」を検討する
余地があるくらいに。

暇なのはさておき、
掘り下げて考えた結果、、

「自分に期待していた。もしくは
 自分は期待されている、〇〇という
 動き、働きが求められている。」
 と、勝手に思い込み、自分の枠を
 作りたがっていると思い至りました。

相手から具体的に役割を与えられた
わけでもなく、自分から宣言した
わけでもないのに、一人で
基準を作って悩んでいたのです。

どんだけ自分の評価が高いんた⁈
すっと身体と心が楽になると
同時に思いました。

何がきっかけなのか?
何がこの感覚を強化したのか?

親が喜ぶ事をしたら褒められて、
それが嬉しくてどんどんやったからか?

自分のやる事は必ず人に
喜んでもらえる、好意的に捉えて
もらえる、との前提があったのかな?

でも、嫌われるくらいなら
何もしない。もしくは、失敗する
くらいなら何もしないが
取るべき選択肢だったのかな?

人の期待を満たせる、
期待でなくても、喜ばれることを
見つけるのが得意な自分に
酔っていた、浮かれていたのでしょう。

親以外に関係する人が増えて、
人間関係が複雑化し、
必ずしも喜ばれない、人によって
対応が変わることに適応できないこと
がで始め、重なり出したあたりから、
上手くない自分に「こんなはずでは」
「もっと自分は出来る」と、
完璧に対応できると思い、それを
守ろうとしたのです。

実際の自分を見ていないから、
どんどん脆いところや不義理な部分、
不誠実や不精な部分が出れば出るほど、
「こんなはずじゃない」
「きちんと言われた通り、やってるのに」
と、どんどん空回りしていました。
というか、今の今までもしてます。

ここまで来て、
ようやく、もう何回も人生で
同じループに入ってきたので、
変えてみよう!となりました。

「誰も僕には期待してないよ」

頭の中で、言ってみます。
期待されてないのは寂しい、
期待されてないってことは
能力が低い、もしくはないと
思われること。
それは嫌だ!認めたくない!
という感情を一旦おいて、
客観的に自分を切り離してみる。

昔喜んでいた親だって、
他の人だって、別に何か
期待していたわけではないと
思います。

僕が欲しかったのは期待だったのでしょうか?否。
喜ぶ顔、喜びの声だったはずです。

褒められたかったわけでも、
感心されたかったわけでもなく、
喜んで欲しかっただけ。

その喜ぶかどうかは相手の自由。
となると、確実に喜ばせることが出来る!
なんて自分に期待することが全く
ナンセンスだな、となりました。

以前も引用させて頂いた

たいしたことない人間になるのを怖がるのか、たいしたことないと思われるのを怖がるのか。後者の人生は伸びない。

『走る哲学』為末大

今日から、自分に期待する事をやめてみます。

自分自身がたいした事ないな、
と気づくのは辛い事ですが、
たいした事ないからこそ、
化ける余地がある。
失敗を躓きと捉えることが
出来るのだと思います。



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