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小野寺拓也・田野大輔『ナチスは「良いこと」もしたのか?』-学者によるクソリプを出版したったwww-

0. はじめに

今回は、とあるオンラインコミュニティのメンバーであるTsuboさんが紹介してくださった、小野寺拓也・田野大輔の『ナチスは「良いこと」もしたのか?』に関連する文章を書いてみようと思う。Tsuboさんのリンクを以下に掲載する。

私自身はナチスにあまり興味はない。以前に片田珠美の『怖い凡人』を取り上げた。この本ではナチスという組織よりはヒトラーやアイヒマンという個人にフォーカスされていた。

ナチスの構成員一人ひとりは凡人であっても、ヒトラーの下では服従を選んでしまうというのが『怖い凡人』の主旨であった。一方で本書『ナチスは「良いこと」もしたのか?』は、当時のドイツ国民はナチスを支持していたのではないか、などのようにナチスの構成員以外の凡人(一般市民)の評価、また現代を生きる私たちの評価について歴史学者が解説(大部分は反論)したものである。
本書のどこをポジティブに評価すればよいのか私にはわからなかった。せいぜいナチスについて教科書より多くの知識を得られる程度である。角の立たない表現をすれば「岩波書店らしい」本であり、特に小野寺・田野の思想が開陳されているところには非常にしびれた。

1. 本文の議論を台無しにする「はじめに」と「おわりに」

小野寺の「はじめに」と田野の「おわりに」において、以下のような言及がある(漢数字を算用数字に変更した)。

最近の事例としては、2021年2月に、小論文を教える予備校講師のツイートがちょっとした騒ぎとなった出来事が挙げられる。そのツイートは、指導する女子高生が「ヒトラーのファンでナチスの政策を徹底的に肯定した内容」の小論文を提出したが、「文体が完璧」で添削に困った、というものだった。
(中略)
前述の女子高生による小論文は、「虐殺の有用性」を肯定する内容であったことが後に明らかになった。それもあってか、ネット上での議論も急速に冷めていった。
ここからもわかるように、現代社会においては、ナチスには良くも悪くも「悪の極北」のような位置付けが与えられている。ナチスは「私たちはこうあってはならない」という「絶対悪」であり、そのことを相互に確認し合うことが社会の「歯止め」として機能しているのである。「ナチス」と名指しされて、それを受け入れる人は現代社会にはほとんどいないだろう。自分はナチスとは違うと、否定する人間が大多数ではないだろうか。
こうした意味で、ナチス認識はその裏返しである「私たちの社会はこうあるべき」という、「政治的正しさ(ポリコレ=ポリティカル・コレクトネス)」と密接につながっている。
(中略)
実はもう一つ、少なくない人びとが「ナチスは良いこともした」と語りたがる理由がある。そういう主張によって、現代社会における「政治的正しさ(ポリコレ)」をひっくり返すことができるのではないかと考えられているのだ。

「はじめに」(小野寺)

筆者のツイートに寄せられた批判的なリプライを動機づけているのはおそらく、ナチスを「絶対悪」としてきた「政治的正しさ(ポリコレ)」の専制、学校を通じて押し付けられる「綺麗事」の支配への反発である。ナチスの「良い政策」をことさらに強調することで、彼らは自分たちの言動を制約する「正義」や「良識」の信用を貶め、「抑圧」からの脱却をはかっているのである。
(中略)
もちろん世の中の支配的な価値観をうのみにせず、たえず権威を疑って批判的に考える姿勢そのものは、けっして否定されるべきものではない。それはむしろ、学校教育において育成されるべき重要な資質・能力の一つだと言ってよい。「はじめに」で指摘した〈解釈〉、つまり歴史研究の積み重ねも、過去の研究を疑い、批判することによって可能になったものだ。だが「ナチスは良いこともした」と主張する人たちにあっては、そうした反権威主義的な姿勢はいわゆる「中二病」的な反抗の域を出ず、ナチズムが実際にどんな体制であったかについては無関心であることが多いようだ。過去の研究の積み重ねから謙虚に学んで、それを批判的に乗り越えていく姿勢はほとんど見られない。

「おわりに」(田野)

本書は本文こそナチスについて説明したものであるが、それは本書の主題ではない。小野寺・田野の興味は「はじめに」と「おわりに」にあるように、ナチスをだしにしてポリコレに言及することにある。
小野寺・田野の議論は不明な点がいくつかある。そもそも「ナチスは良いこともした」と主張する人の動機がポリコレに関連しているという主張はほとんど根拠がない。唐突にポリコレという言葉が登場するのだが、なぜポリコレに関連しているといえるのかの説明は書かれていない。
小野寺と田野は、ポリコレという言葉の意味を誤解しているのではないだろうか。Wikipediaによれば以下のように説明されるが、他の情報源の説明もほとんど同じである。

ポリティカル・コレクトネス(英: political correctness、略称:PC、ポリコレ)とは、社会の特定のグループのメンバーに不快感や不利益を与えないように意図された政策(または対策)などを表す言葉の総称であり、人種、信条、性別、体型などの違いによる偏見や差別を含まない中立的な表現や用語を使用することを指す。「政治的正しさ」「政治的妥当性」とも言われる。

「ナチスは良いこともした」という主張が、「社会の特定のグループのメンバーに不快感や不利益を与えないように~」「偏見や差別を含まない中立的な表現や用語を使用する」といったポリコレの要素に反するものなのかは明らかとはいえない。ナチスを「悪の極北(小野寺)」「絶対悪(田野)」と捉えるのが歴史学的に正しい解釈であり、それとは異なる解釈や意見に対して反ポリコレというレッテルを張っているようにしかみえない。別の言い方をすれば、「ナチスは良いこともした」という意見を否定することにより、小野寺・田野が自身の「政治的正しさ」をアピールしているにすぎない。本書を通読したときに私ががっかりしたのは、ナチスについて述べることが本題であるかのようにカモフラージュして自分たちを良く見せているという、心の男根をバキバキに怒張させているその心持ちが見えてしまったからである。

2. 「ナチスは絶対悪だ」という信仰

現代の日本において、現職総理大臣が銃撃された事件は記憶に新しい。その直後の報道でよくみられた意見に「テロに屈するな」というものがある。この意見単体にはあまり異論はないかもしれない。しかし、これに関連して「犯人の要求をのむことはテロに屈することになるからよくない」という趣旨の意見もあったように思う。たとえば、犯人がある宗教団体による物的・心理的な被害を受けていたとして、犯行後にその宗教団体による被害が拡大しないように何らかの政治的なアクションをとることを「テロに屈した」と理解すべきだろうか。私は、テロないし法に触れる方法を用いて何かを主張することには反対するが、そのことと、その主張されたことに対して社会がどのように受け止め、対応するかは切り分けて考えるべきであると考えている。これはテロ礼賛ではない。
ナチスの行ってきた政治的な活動は、もちろん政治的な目的を達成するためのものであり、その目的まで含めて「ナチスは良いこともした」と主張する人は、私の想像では「ナチスは良いこともした」と主張する人全体の中でもごく一部ではないかと思う。小野寺・田野が歴史学者の観点からナチスに否定的な見解を有することはおかしなことではないが、ナチスが実際にどのような政策を行い、それが有効であったのであれば、現在の政治的な目的に合うように変形させて導入しようという意見は十分に検討に値する(とはいうものの、ナチスの政策がそれほど有効ではなかったことは本書で説明されている)。
歴史学者以外はナチスにそれほど詳しくないにもかかわらず、「ナチスは絶対悪だ」という理解は多くの人が持っているだろう。私は、このような理解は宗教的な信仰とほとんど区別がつかない。「ナチスは良いこともした」と主張する人が「ナチス絶対悪教」に疑問をぶつけただけで信者から猛烈に反発されている構造である。このような構造を仮定すれば、本書は宗教の信者に向けた本であるということもできる。ここでいう信者とは主に小野寺・田野に近しい学問分野を専門としている人や、小野寺・田野のいうポリコレに親和性のある人、心の男根をバキバキに怒張させている人(言いたいだけ)などである。SNSでの本書への感想を見る限りは、大学教員あたりに信者が多かった。いうなれば「そういう人たち」である。

3. それで結局「良いこと」ってなんですか?

『ナチスは「良いこと」もしたのか』という文の意味をいくつかのステップで考えたい。

①    変数Xを含む「ナチスはXをした」という文を作り、Xに具体的なものをいろいろと代入してそれぞれの真偽(実際に行ったかどうか)を調べる。
②    Xを新たな変数「良いこと」で置き換える。少なくとも小野寺・田野は、ステップ①で代入したものは「良いこと」であることが本書の前提(仮定)になっている。「良いこと」は一単語として捉えられている。
③    「良いこと」を「良い+こと」に分解したとき、「良い」とはどのようなものかを考える。

ステップ①において本書でXに代入された事象は、経済政策や労働政策の具体的なものであり、これらはすべて真である。問題はステップ②以降である。「はじめに」において以下の記述がある。

「ナチスは良いこともした」という議論は、なぜこれほどまでに沸騰するのだろうか。そもそも「良いこと」とは何なのだろうか。
まず考えてみたいのは、「ナチスは良いこともした」とあえて発言することが持つ意味合いだ。何を「良いこと」「悪いこと」と考えるかは最終的には個人の価値観の問題だとするならば、そもそもなぜこのようなことが議論になるのかがわからない、人それぞれ考えが違うということでいいではないかという立場も、あり得るといえばあり得る。
しかし実際には、そのような立場はほとんどの人にとって受け入れがたいものとなる。それはおそらく、「ナチスは良いこともした」という場合の「悪いこと」について、ほぼ共通了解があるからだろう。戦争、ホロコースト、障害者に対する「安楽死」、政治的な敵対者に対する抑圧などがそれである。これらを「良いこと」であると表明することは、現代社会において決して許容されない。「良いこと」だと主張する人が時々あらわれることはあるが、幅広い共感は得られない。

「はじめに」(小野寺)

ここでは「良いこと」を直接説明せずに「悪いこと」を例示することにより、「良いこと」にどのようなものがあるのかを説明しようとしている。確かに戦争やホロコーストを「悪いこと」であると考えるのは自然かもしれないが、この説明で「良いこと」がwell-definedにはならない(「悪いこと」もwell-definedではない)。小野寺・田野は本文において、政策がナチスオリジナルなのか、ナチスがどのような目的でその政策を行ったのか、その政策が「肯定的」な結果を生んだのか、などで「良いこと」かどうかを検証しているのだが、「肯定的」もwell-definedではない(カッコつきであるということは何らかの意図があるのだろうが、それは明らかになっていない)ため、結局のところ検証に失敗している。良い/悪いや肯定的/否定的は倫理、道徳、価値観の問題を含んでおり、辞書的な意味だけを考えるのは不適当である。歴史学の共通理解として「良い」「肯定的」が存在しているのであれば、それを示せば読者に前提が共有されるが、小野寺・田野の脳内にある基準で話が進むため、基本的には前提があいまいであり読者はおいてけぼりにされる。小野寺・田野は先に結論を決めており、それに都合の良い話をつなげているように読め、私には論点先取に思えた。

4. おわりに

本書作成の背景に、田野の「30年くらいナチスを研究してるけどナチスの政策で肯定できるところないっすよ」という投稿に対するクソリプがあることは本書に書かれている。ナチスについて肯定的に言及している人がいたとして、それは別に歴史学の観点を取り入れているわけではない。

歴史学の話をしていないところに、歴史学者が「歴史学の観点が欠けている」と言わんばかりにクソリプを書いたら本書ができあがったのだろう。SNSが広く受け入れられている時代だからこそ実現した本書について、「小野寺や田野の手口に学んだらどうか」。
本書はタイトルだけ読めば内容がわかってしまうという意味で、読まなくてもいい本である。「良いこと」もしたのか→いや、そうではない(反語)という意図があることはほとんど明らかだからだ。しかし、「良いこと」が1つもないという形式論理の主張はできていないことに留意した方がよいだろう。本書は論理学の本ではなく歴史学の本であり、歴史学者に論理学という学問全般の基本事項を要求するのは酷である。

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