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【糸川さんカッケェ…】日本ロケット開発初期がたまらなく面白い

 
 前回は日本のロケット開発の歴史のうち小型のペンシルロケットの打ち上げ成功まで話したので今日はその続きから解説しよう。

 糸川らのチームスタッフがロケットの大型化を目指して次に開発したのが「ベビーロケット」 と呼ばれるもの。直径8cm、長さ120cm、重さ10kgとペンシルロケットから格段に大型化したそれは、2段式のロケットとしてより高い高度を目指していた。

ちなみに2段式とは、ロケットエンジンの燃焼を地上と空中の2回に分けて行うよう設計されたロケットのことで、以前の放送で詳しく解説している。よかったらそれもチェックしてほしい。

 ベビーロケットは最初、打ち上げ性能を確認するためにS型というのが開発されたが、なんとその高度は6000mが達し、ペンシルロケットのおよそ10倍の高度にまで達することができた。

これにより自信をつけた糸川らのチームスタッフは、ベビーロケットを科学観測ロケットして利用することを検討し、新たにT型が開発される。このベビーロケットTは高度や速度、温度、加速度などを計測し、地上への電送に成功した。おもしろいのが、この当時は上空からの電波を受信するアンテナが手動だったので、観測者がアンテナを持って走り回るなど、今では考えなれないほど様々なものを手作りしていた時代だった。興味あったら検索してみると面白いぞ。

 ベビーロケットの成功で技術を高めてきた糸川らは、次の目標としてロケットを高度50kmに到達させることを掲げる。ベビーロケットが到達した高度のおよそ10倍を目指そうということだ。そうして実際に開発されたのが「カッパロケット」と呼ばれるロケット。

これはベビーロケットのように順調にはいかず、当初は目標を達成させるのに1型〜5型まで開発し改良を加えていたのだが、高度20kmを超えることができなかった。やはり桁を一つ上げた高度にまでロケットを到達させるのは相当に苦労したようだ。

 反省の結果、失敗の原因が推進剤にあることがハッキリすると、1958年6月、新たに開発された推進剤を搭載したK-6型ロケット開発した。この打ち上げでは高度40kmへ打ち上げることに成功し、20kmの壁をようやく破ることができたのだ。その後、60kmの高度に達することにも成功した。

 目標を達成したカッパロケットはその後改良が進められ、1960年に打ち上げられた8型は、ついに高度190kmを超えるようになった。一度壁を超えるとみるみる高度が上がっていくあたりは、半導体性能の向上や高速移動通信の進化など、他のテクノロジーとも共通するところがある。

 ちなみにカッパとはギリシア語の「K」のことで、命名に苦労した糸川が架空の妖怪である「河童」 と同じ語感の良さから命名した。これ以降、糸川の開発するロケットはアルファベットの順番通りラムダ(L)、ミュー(M)とギリシャ文字を使用することになる。

 さて、高度60kmの目標達成から順調に高度を伸ばしていったカッパロケットは、高度が200kmに達したあたりから日本海の狭さが問題になっきた。理由は打ち上げに失敗するとロシア側に落下してしまうおそれがあったからだ。そこで糸川は、太平洋側から打ち上げられる新たな発射場の確保に奔走し、北海道から種子島まで全国を回りはじめる。

海に囲まれた日本では至ることろで漁業が盛んだ。そのため、漁業者の生活を脅かさない場所であることが必須になる。くどいようだが、ロケットの開発はミサイルの開発とほぼ同義だ。ひとたび地上に落下すれば予想だにしない被害が出る恐れがある。何よりまず安全性を重視しなければならない。

新たな発射場の選定はだいぶ苦労したようだが、北から南まで全国を探し回った糸川がようやくたどり着いたのが、鹿児島県大隅半島にある内之浦だった。現在は宇宙観測所として活用されている場所だが、当時はロケット発射場として使われていた。

周辺が山で囲まれており、発射場建設の際は山を削って建てられたため、このような場所を発射場として利用するのは世界的にもかなり珍しい。

 発射場の建設は地元の人々による町興しを兼ねた歓迎と漁業組合との話し合いによって順調に進めていくことができた。

不幸なことに、内之浦でのロケット発射場の建設中に道川海岸から打ち上げられたK-8型ロケットが、打ち上げ直後に地上に落下してその破片により付近の集落に火災を発生させてしまうという事故が起きてしまっていた。

これにより道川海岸で予定されていた打ち上げは中止され、糸川らが所属する東京大学生産技術研究所が打ち上げるロケットは、以降すべて、この内之浦から打ち上がられることになる。内之浦が見つかっていなかったらロケットの打ち上げは長いこと停滞していたかもしれないことを考えると、発射場が新たに見つかったとは不幸中の幸いといえるだろう。

そんな感じではじめは全長1mにも満たないペンシルロケットから始まった日本のロケット開発は、その後のベビーロケット、カッパロケットの打ち上げ成功によって宇宙観測の幅をさらに広げていった。この頃世界からも徐々に注目され始め、発射場もより安全で大規模な場所へと移っていく。

 ちなみに、日本の宇宙開発機関として有名な「JAXA」が設立されるのは2000年代以降になってからなので、政府が宇宙開発に本格的に乗り出すのはまだまだ先の話だ。

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