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空の人

ジョン・スカイヤー君は、若い白人男性だ。
アメリカ出身という噂だが、確認したわけではない。
いつも倫理学科の講義に顔を出して、熱心に聴講している。

背はそんなに高くないが、ごついしっかりした体型。
空手の有段者だという話だ。
実際、黒帯の空手着姿で、キャンパスに現れることもあった。
外国人の留学生は珍しくない大学なので、僕も特に気にしたりはしていなかった。

そんなスカイヤー君が、ある日のゼミをきっかけに、僕の世界に舞い降りたのだ。
日本倫理思想史のS教授のゼミだった。
テキストは近松門左衛門の「曽根崎心中」。
毎回交代で、数名の受講者が発表をする。
その日は僕も、担当のひとりだった。
「心中」「色好み」「情」をキーワードとしてレジュメにまとめ、訥々と説明をした。

一通り説明が終わると質疑応答。

「君のは学問じゃない、文学だよ。
いや、それどころか中学生の感想文レベルだ」

大学院生のひとりが、容赦なく駄目出しする。
学生の中には好意的な評価を口にしてくれる者もいたが、院生からは総じて散々の言われようだった。
さすがに落ち込んでいると、後にスカイヤー君が声をかけてきた。

「わたし、あなたの説、気に入りました。
とってもスマートですね。
すばらしいです」

とにかく、絶賛してくれるのだ。
仮にお世辞だとしても、嬉しかったのだが、スカイヤー君の素直な表情と透き通った青い目を見ると、口から出任せとは、とても思えなかった。

この回に限ったことではない。
同期の連中は皆やさしかったが、先輩諸氏、特に院生は遠慮が無かった。
僕の発表は、ぼろくそにこき下ろされることが多かった。

スカイヤー君も、いつもやさしかった。
ただ彼は、手放しで褒めるばかりではない。
わからない時は、わからないと素直に言った。
部分的に褒めて、他の部分に否定的な顔をすることもあった。

スカイヤー君はゼミにおいても、僕に対しても、積極的に自己主張をするというわけではなかった。
対象に真摯に対応して、吸収できるものは吸収しようという姿勢は垣間見ることができた。
日本語はイントネーションが少しおかしかったが、受講には特に支障無さそうに見えた。

スカイヤー君がどこに住んでいるのか、誰も知らない。
不愛想でも人見知りでもなかったが、プライベートで誰かと連んだりすることは無かった。

スカイヤー君は、僕が倫理学科に来た時点で、既にそこにいた。
いることはわかっていたが、さして気にはならなかった。
「曽根崎心中」の件があってからは気になるようになったが、僕もまた彼とゼミ以外での接触は無かった。
敢えて接触しようとも思わなかった。
スカイヤー君自身も、そういう関係を望んではいないように見えた。

そんなスカイヤー君が、1年後に突然消えてしまった。
誰も特に取沙汰はしなかった。
彼の消息を訊ねてみても、答えられる者はいない。
アメリカに帰ったという話も聞かない。

S教授にも訊いてみた。

「さあ…少なくとも正規の留学生ではないだろうね。
まあ、どこの誰だかわからない贋学生も結構いたりするから。
うちの科の場合は、黙認してるんだけどね。
別に悪さはしないし、みんなやる気が有って、一般学生なんかより優秀なのも珍しくないしね」

名前のせいだろうか。
スカイヤー君のことを考えると、つい空を見たくなる。
もしかしたら本当に、空へ帰ったのかもしれない。

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