10年前の今日、私は、あの日。

東日本大震災から、今日で10年。

というタイトルの記事が、ソーシャルメディアのタイムラインを埋め尽くしている。あれから、10年経つのか。

東京に住み、レコード会社で働いていた当時の私は、確か大量のCDを片手にラジオ局に向かう途中で、ぼんやりと、死ぬかもしれないな、と思ったことを思い出す。

なんとかたどり着いた新宿の駅で、ビルから逃げ出してくるおびただしい人の様子は、まるでゴミのようだった。上司から、自宅に帰るようにと指示があり、けれど電車は全て止まっていて、新宿から自宅のある下北沢まで歩き始める。得体の知れない不安感ですっかり体温が下がってしまって、途中身動きできなくなり、たまたま通りかかった避難所に入って、目にしたテレビ越しの東北の無惨な姿に、言葉を失った。

翌日会社に向かうと、私のデスクのCDや大量の資料はめちゃくちゃになぎ倒されていた。みんなでテレビのニュースに見入り、いや、これは、音楽どころではないし、新譜のリリースなんて言ってる場合でもない。それでも、いつも通りに会議が開かれ、来週のリリースのために、どこのテレビ局のどの番組で、とか、あとラジオで何回この曲をかけなくては、なんて話をしている、自分に物凄く違和感を感じた。

人が、今まさに、この日本で死んでいっているのに、私はなんで、音楽を売る話をしているんだろう。私はその日、上司のデスクへ向かい、こんな気持ちで働けません、気持ちの整理がつくまで、明日から数日休みを欲しいと伝えた。お前は精神的に弱いなあと言われたけど、上司はそう言うなら仕方ない、と認めてくれた。結局、社長令で、全社員一週間休業の連絡が来たのは、その数日後だった。

ニュースが流し続ける光景は、まるでどこか違う国の話のようだった。得体の知れない放射能汚染の脅威に、一人家で膝を抱えていた。命はこんなにも儚くあっけなく無くなってしまうのかと、愕然とした。私も、明日とつぜん、何の前触れもなく、死ぬ得るのだ。きっと当たり前のことの、それでも恐怖を伴った実感は、私の人生の何かを確実に変えた。

明日死ぬかもしれないとして、私は、それでも悔いはないだろうか。明日人生が終わるとして、私は、少なくとも、やれることはやったのだ、と言い切れるだろうか。その答えはノーだった。そうして私は、明日死ぬとして、死ぬまでにやりたかったことを書き始める。100個書いたリストのそのほとんどを、実現するには程遠い人生を送っていることに気がついた時、それを見ぬ振りをして生きることは、もうできなかった。

会社に戻ったその日、お昼休みに私は銀行に行って、定額貯金口座を作った。貰った分の給料を、服や家具や飲み会に散財する生活を送っていた私には、何かを変えようにも、始めようにも、資金すらなかった。給与口座から自動的に振替られる定額貯金口座の金額を徐々に増額し、9万の一軒家から4.5万のアパートに引っ越し、要らないものを売り、食費を節約し、200万円貯まった頃には、世界へ飛び出す決意を固めていた。

あの、人生の何かが変わった日から、10年。

きっと私だけでなく、多くの日本人の人生を、変えたであろう日から。


私は今、日本から遠く離れたアフリカの、ケニアという国で、家族と、ものづくりをしながら暮らしている。10年前の私には、微塵も想像できなかった人生だ。その間に47ヶ国をひとりで旅して、心から好きなことに出会い、心から好きな人に出会った。

時々、もしも日本を出ていなかったら、もしも明日死ぬかもと思わなかったら、もしもあの日、大震災が起きなかったら、と考える。

私はきっと今日も東京で、音楽業界の端くれで忙しく働いていただろう。別の人と結婚し、世界のせの字も知ることもなく、日本の外で起きる出来事になんか微塵の興味も湧かず、それでも、その私なりの幸せを生きていただろう。

どっちが正解だった訳でもない。正確には、その時点ではどちらも正解ではなかった。ただ私はあの日から、選んだこの道を、正解だったと言えるように生きてきただけなんだと思う。東京で生き続けていたとしても、それは同じだったはずだと思う。

きっと誰にでも、実は何千通りかの人生のシナリオがあって、私たちは知らず知らずに、今を、今日の自分の物語を、選んで生きている。やり直しはきかなくて、一回きりしかなくて、それでも毎日は決断の連続で、選べないことを選ばなければならないこともある。選ばなかった方の人生の物語の行方は気になれど、それでも今日もこうして、無事に生かされていることに、幸せに生きていることに感謝の気持ちを忘れないで、選んだ今日を、自分を、責任を持って生きたいと思う。生きていることを全うすることが、私という可能性を生きることが、生かされている者の、使命だと思うから。



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