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1年前に一度だけ会った人と、結婚しました。

ちょうど1年前に、一度だけ会った人と再会して、結婚した。

と書くと冗談のようだけど、運命とはそんな気まぐれのように聞こえるものだ、とも思う。

初めて会った去年の大晦日、ケニアの年越し音楽フェスの会場で、あの人がこっちに向かって歩いてきた時、話始める前の名前も国籍も知らない時点で、冗談抜きで「ああ、きっとこの人と一緒になるんだな」という感覚が走った。

どこから来たの?と聞くと、ロサンゼルスと彼は答え、君は?と聞かれ、日本。でもナイロビに住んでる。と答える。
その次にはじゃあナイロビに戻ったらご飯に行こう、となり、連絡先はと聞かれ、私はおもむろに名刺を渡した。
クリエィティブ・ダイレクター、と書かれたそれを見て、彼が尋ねる。
「何してるの?」
「アフリカの布で服作ってる。」
「えっ。僕もアフリカの布で、服作ってるんだけど。」
「えっ。」

2人とも驚いた顔をして数秒止まったあと、10メートル程先で立って待っていた彼の友達の方を見やって、じゃあまたご飯の時に、となんだか怖いものを見たかのようにそそくさとその場を去る。こんな偶然あっていいのか、とソワソワしながら、名前を聞きそびれていたことにすら気づかず、でも次に会った時にはもっと驚くことがわかった。
私たちは、10年前に、日本で会っていた。

蓋を開けたら、彼はファッションデザイナーで、ミュージシャンでもあった。スティービー・ワンダー、ブルーノ・マーズ、ニール・ヤングにボブ・マーリーファミリーと、名だたるアーティストと共に音楽をやっていた。そして10年前の、FIFAワールドカップのテーマソングを歌ったあのミュージシャンとは親友で、世界中150ヶ国以上をツアーでまわり、日本にも5度ほど訪れていた。そしてそのミュージシャンは、当時私がプロモーターとして働いていたレコード会社の所属だった。

「日本にはショーで何度も行ったことがあるんだ、友達もいて、僕らの担当だったシンタロウなんだけどね、」と彼が唐突に話し始めた時、鳥肌が立った。待って、そのシンタロウって、もしかしてこの人じゃないよね?と、同じ配属先レーベルだった先輩の写真を見せる。とその瞬間、「やぁ。」と遅れてやって来たのは、紛れもなく、彼のその親友だった。点と点が、何の予告もなく繋がって、線になった。

彼らはインタビューや撮影で何度も社屋に訪れていた。私がスタッフとしてバックステージにいた夏フェスにも出演していた。同じ景色を、同じ場所から、違う視線ではっきりと見ていた、その昔話に花が咲く。そう、私たちは10年前、確実にすれ違っていた。でも当時、英語も喋れなかった私は海外や洋楽に特に興味はなかったし、世界的アーティストのチームがいちアジアの国のスタッフを気にかける由もなかった。10年前、あんなに近くにいたのに、交わるようには用意されていなかった私たちの運命が、どうゆうわけか時を経て、めぐり戻ってきた。

今年41歳になる彼は、ソマリアという、アフリカの角、東アフリカ東端の国に生まれた。現在も続くソマリア内戦が勃発した翌年の9歳の時、アメリカ人の家庭に養子として引き取られ、アメリカ人になった。幼少期から音楽に没頭した彼は数年後、親友と出会い、一緒に音楽を作り始め、後にレコード会社のプロモーターに見出された親友とともに、世界を飛び回ることになる。
彼ほどでもないし事情も異なるけど、私も6年前に日本を飛び出してから、一度2週間帰っただけで、以来世界を転々としながら生きている。物理的にはどこにも属してない、という感覚が強いと話すと、僕も全く同じ、と彼は嬉しそうに答えた。

私のブランド、ノマディック・アルティザンは、そうゆうわけで、自分を端的に表す言葉だと思って選んだ名前だった。放浪する職人。そして祖国を離れ世界を転々とする彼もまた、ノマディック・ボーイという名前を、1番最初に作った音楽レーベルにつけていたのだった。

たかが2つ3つの偶然の一致に、ただ舞い上がっているのかもしれない。すごい偶然が重なったのは間違いないけど、でも結婚生活はもっとリアルで平坦でシビアなんだろう。それに国際結婚だから、価値観の違いとかキリがないほどあるんだろう。襲い来るめんどくさい量の公的書類も想像に易い。

でも私の中で、それは結婚に限らずだけれど、かけた時間に関係なく、うまくいくものはいくし、いかないものはいかないと思っている。そして多くの国を旅して、ありとあらゆる人と出会い多様性の中を生きる私たちは、違いを受け入れることが、きっととても上手だ。

名前と、生まれと、少しのストーリーしかまだ知らない者同士だけど、ここから数十年かけて暮らしていく中で、まだ誰にも話したことのない、世界の色んな物語を、2人で交換しながら、生きていこうと思っている。まだあの人について知らないことがたくさんあることにワクワクしているし、生き急いでもないから、死ぬまで新しい発見が尽きなそうで楽しみだ。もう一度世界を、今度は2人で旅してみたいし、2人の服のブランドも作りたいし、2人で音楽だって一緒にやれたら幸せだ。どんな国のどんな環境に、どんな風に暮らすことになっても、私と彼はきっと躊躇わない。だって私もあの人も、どこでだって生きていけることを、知っているから。

私たちから生まれてくる子どもは、アジア人と黒人のミックスとして、きっと大変なことも待ち受けているのだろう。願わくば、多様性の美しさの証として、凛と強く、痛みのわかる、優しい人に育って欲しい。

未だに連絡を取ってくれる、古巣のレコード会社の大好きな先輩が、レーベルヘッドに昇進した時に言っていた言葉が、今でも私の胸にずっと合言葉のように残っている。「いや、面白がってやってみようと思ってさ。」先輩はついに役員に昇進した時も、全く同じことを言っていた。
そう、人生は一度きりだから、自分の道に舞い込んでくることを、面白がって生きてみようと思っている。足踏みしていられるほど人生はきっと長くはなく、あらゆる雑音や偏見がつきまとうこの世界で、自分の心と直感に従って生きることが、今のところ唯一の正解だと思っている。

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