何故「武士は盾使わなかった」と言われるのか
Q.日本の武士は何故盾を使わなかったのでしょうか?
A.盾使ってました。以上!!
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これで終わらせてしまってはいささか乱暴が過ぎるので、そもそも何故「武士は盾を使わなかった」と言われるようになってしまったのでしょうか?
盾はびっくりするほど影が薄い
「武士は盾使わない」論者の言い分で良く聞くのは
刀の鎬が盾の役割をする
大鎧の大袖が盾の役割をする
弓が強すぎて盾が意味をなさない
などがあります。
しかし実際にはかい盾や置き盾と呼ばれる置いて使う盾や、手に持って使う手盾、竹を束ねて使う竹束、広義で言えば矢を防ぐ母衣や大袖なんかも盾に当たります。
それなのに、何故「盾は使ってなかった」なんて言われるようになったのでしょうか?
それは偏に「盾の存在感の無さ」によるものではないでしょうか?
日本の武道では盾はほとんど扱われてない
まず現代に伝わる古武術ですが、軽く調べたところ、手盾の扱いに触れている流派は天心流兵法くらいでした。
琉球古武術では盾(ティンベー)と手槍(ローチン)を扱う武術がありますが、琉球王国は明治時代まで外国なので、ここでは除外します。
それ以外には盾と刀を用いた剣術や古武術と言ったものはマジで出てこないです。盾術や盾道といった武道も一切無いです。
絵巻に書かれるくらいに戦場では使われていたのに、武術としての使用技術は全く出てこないです。
投石術ですら印地と名付けられて戦闘技術として確立しているのに、きちんとした道具として作られている盾の取り扱い方法は、後世ではほぼ忘れ去られたものとなっています。
道具としてもほとんど現存しない
「言っても戦道具じゃん?取り扱う技術は失われても、物としては残るでしょ」という人もいるかもしれません。
なるほど、一理あります。
確かに戦道具ならば、しかるべき戦に備えて大事に保管され、いつでも使えるように整備されているかもしれません。
本陣の近くなど比較的安全な場所に置かれる盾ならば、趣向を凝らした豪奢な作りになっていて、現在まで残っている可能性もあります。
戦道具とは言え、家紋が書かれるような品物です。
そのようなものは無下には扱われないだろうし、先祖代々伝えられて国宝として現存している可能性だってあります。
ところがどっこい!ありません!!物も残っていません!!!
もしかしたら合戦の資料館などに置いてあるかもしれませんが、かい盾や手盾の現物は少なくともネット上では全く見つかりませんでした。
ちなみに国宝と言ってもいい盾はありました。
古墳時代の銅鏡ですけどね。
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他の武具や防具の国宝は山ほど出てきます。
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武術としてはほぼ残っていない金砕棒ですが、実物は今でも古美術品として取引されてたりします。
慣用句などで見る盾の扱い
取り扱い技術でも、現物でも、現代まではほとんど伝わっていない日本の盾ですが、最後に盾に纏わる言葉を見ていきましょう。
弓や刀、鎧などに関係する言葉はその現物は使われなくなっても、慣用句など言葉として残っている場合があります。
例えば弓に関する言葉ですと
矢面に立つ
手薬練を引く
矢継ぎ早
一矢を報いる
二の矢を射る
正鵠を射る
手の内を明かす
図星
自分勝手
引き分け
などがあり、武士の事を「弓馬」や「弓取」などと呼んだりもします。
ちなみに盾にも慣用句はあります。
盾に取る
盾の半面
矛盾
盾の両面を見よ
盾を突く
この中の「矛盾」は中国故事から、「盾の両面を見よ」は西欧の故事からです。
この中で面白いと思ったのは「盾を突く」の由来です。
私はてっきり「盾を槍で突く」ことから転じて反抗する、逆らうという意味になったと思っていたのですが、「戦いの為に盾を地面に突き立てる」という行為から反抗する、逆らうという意味になったそうです。
成立は「三宝絵詞」という平安中期に編纂された仏教説話集らしいのですが、その頃から盾の使い方は「手に持つ」よりも「地面に置く」が主流だったのは驚きです。
ちなみ中世ヨーロッパでスクワイア(squire)と呼ばれる騎士に従う騎士見習いは従騎士、または盾持ちと訳されますが、日本で同じ役割を持つ従者は槍持ちと呼ばれています。
そもそも盾は武具じゃなくバリケード扱いだったのでは?
ここからは想像になりますが、そもそもの盾の扱いが「武具」だったのか疑問が生じてきます。
手に持つこともありますが、基本的には置いて使用される盾。
これは土嚢や柵などのバリケード、つまりは建築物の一種として見られていたのではないかと想像します。
その為に取り扱う技術も個人の武術としては残らずに、運用方法も時代の流れて使われなくなって、次第に忘れ去られていったのではないかと考えます。
盾が武具じゃなくなった理由は弓と馬
盾が日本で影が薄くなった理由は十中八九、弓と馬です。
「海道一の弓取り」と東海道の優れた武将を表す言葉がありますが、この言葉から読み取れるように武士の主力武器は弓です。
弓を引くのに両手を使う事となるので、必然的に片手が塞がる盾は持てなくなります。
そこで両手を使いつつも、置いて身を守ることが出来る置き盾が主流となっていったと考察されます。
そしてもう一つの武士の主力武器、それが馬です。
盾は主に歩兵の武器です。ローマ時代の重装歩兵で見られるように統率の取れた戦列を組めば何物も寄せ付けない圧倒的な防御力を誇ります。
ただし盾の重さで動きが鈍重なため、足場の悪い地形や機動力で勝る騎兵には弱いという弱点があります。
ここでもう一度振り返ってみましょう。
武士の主力武器は弓と馬です。
おまけに日本は山ばっかだし、雨も降るし、足場はめちゃくちゃ悪いです。
この理由から、障害物にもなって矢を防げる置き盾が主流となり、盾は単なる矢を防ぐ道具として扱われるようになったのではないでしょうか?
それにしても盾が消えるのが早すぎる
ちなみに手に持つ盾が廃れていくのは世界的に見ても珍しいことではありません。
古代では身体を覆い隠すような大きな盾が使われていても、飛び道具の進化や防具の進化が進んでいき、徐々に小さく軽量化されて、最終的には手に持つ盾は使われなくなったり、置くタイプにシフトしていったりします。
日本でも例に漏れず古代では手に持つ盾は盛んに使われていまして、それが飛鳥時代以降徐々に廃れていって、今の置き盾が主流になっていったそうです。
古墳時代では盾は実用以外にも儀式で用いられていました。
権力者が盾持ちの埴輪を古墳周辺によく置いていたところから、古代日本では武力や権力の象徴とされていたことが分かります。
盾の信仰は仏教が流行したことによって廃れていったようですが、それでも古代では盾は実用面でも宗教面でも重要な立ち位置にあった事が分かります。
ここで一つの疑念が浮かび上がります。
こんなに重要なポジションだったのに盾がオワコンになるの早すぎね?
そうです、そうなんです。
調べていて不思議だったのが盾がオワコンになるスピードです。
普通は小型化したりと徐々に使われなくなっていってフェードアウトしていくのに、日本だと戦闘を生業とする身分の武士が台頭してきた段階ではもう手に持つ盾は時代遅れになっています。
盾のポジションについて
まず盾の役割ですが、当然身を守る為にあります。そこでまず、戦士の成り立ちから考えていきましょう。
人が多くなると縄張り争いで衝突します。まずそこで相手に打ち勝つ為に武器が生まれます。
武器が出来ると相手からも傷付けられる可能性が高くなります。そこで身を守る防具が生まれます。
そこで盾が生まれます。
この流れで考えるのは自然ですよね。
次に盾が廃れる流れを考えていきましょう。
武器が進化して盾で防ぐのが難しくなってきます。そして防具も進化して、盾の役割を防具に持たせる事が出来るので、盾をわざわざ持つ必要は無くなってきます。
よって盾は廃れます。
こういう考え方も自然ですよね?
この2つを日本の盾の状況に合わせると
古墳時代ではみんなバリバリに盾使ってたけど、急に馬と弓が流行ったので飛鳥時代では
盾がオワコンになりました。
となります。
マジで!?
弓と馬は高コスト
ここで「マジで!?」と驚く点は弓と馬の導入コストの高さです。
まず弓ですが、弓は強力な兵器ですが使いこなすのに修練が要ります。
端的に言えば槍は渡された瞬間から素人でも人を殺せますが、弓は素人に渡しても矢をまっすぐ飛ばすことすらままならないです。
次に馬です。
馬は外来生物で、四世紀頃に大陸から輸入されたようです。
普通に考えたら権力者しか持てないような高級品ですよね?
弓と馬がないと生活がままならない狩猟を生業とする遊牧民族ならともかく、弥生時代から米育ててる農耕民族の日本人みんなが急に馬を持てて弓を使いこなせるようになるとは考えにくいです。
武士の成り立ちは農民の自警団?
ここで一旦武士に目を向けてみましょう。
武士は平安時代に台頭してきた弓と馬を使いこなす戦闘集団です。
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平安から鎌倉時代に生まれた大鎧が弓を打つのに特化した鎧であることを考えても、武士が弓と馬のプロフェッショナルであることは疑いようがありません。
武士は古代日本では存在しなかった階級です。ここで武士の成り立ちを見てみましょう。
https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/171041/
https://yab.yomiuri.co.jp/adv/wol/opinion/culture_090706.html#:~:text=%E3%82%82%E3%81%A8%E3%82%82%E3%81%A8%E5%BE%8B%E4%BB%A4%E5%88%B6%E4%B8%8B%E3%81%AE%E6%AD%A6%E5%AE%98,%E3%81%A0%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E8%A6%8B%E8%A7%A3%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%82
武士の起源にはいくつかの説があります。
よく言われるのが「地方の治安悪化と共に自警団として生まれた」と言う説です。
この説で考えると、武士は元農民で仕事の傍ら武装して村を守ってるって事ですが、それにしてはいきなりパワーアップし過ぎです。
前述した通りに馬と弓は導入コストが高いので、農民同士の小競り合いでいきなり農業ほっぽり出して戦闘訓練ばっかするのは流石にありえないです。侵略国家しか生まれません。
そう考えると農民の自警団から馬と弓のプロフェッショナルへの進化が武士の成り立ちと考えるのはいささか無理があります。
この急激な進化は何故起こったのでしょうか?
キーワードは健児(こんでい)
鍵となるのは健児(こんでい)です。
時は663年、白村江の戦いまで遡ります。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%9D%91%E6%B1%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
白村江の戦いは当時交流のあった百済と日本の連合軍vs唐と新羅の連合軍の戦いです。
この戦いで負けた日本は「この後、唐に攻め込まれちゃう!どうしよう!」と危惧して九州に防衛隊を設置します。
それが防人(さきもり)です。
当時の防人制度は中々にクソで諸国から3年の任期で軍団が派遣されますが、食料や武器は完全に自前でした。
おまけに任期は平然と延ばされ、その間の税も普通に徴収され、護衛もなしに普通に送り返されるので、道中で野垂れ死ぬことはざらだったそうです。
防人に赴く人の悲しみを綴った歌も万葉集に残されています。
国国の 防人つどひ 船乗りて 別るを見れば いともすべ無し
(現在語訳) 全国から集まった防人が(任務のため)船に乗って別れることを見れば、なんともなす術もない。
わが妻は いたく恋ひらし 飲む水に 影さへ見えて 世に忘られず
(現代語訳) 私の妻はとても恋しがっているようだ。飲もうとする水に影までもみえていて、決して忘れられない。
唐衣 裾に取りつき 泣く子らを 置きてそ来ぬや 母なしにして
(現代語訳) 唐衣にすがって泣きつく子どもたちを(防人に出るため)置いてきてしまったなあ、母もいないのに
この制度が大分クソだった為、757年には徴兵が九州に限られ、更には792年には桓武天皇によって少数精鋭の職業軍人が任に付く事になりました。
その少数精鋭の職業軍人が健児(こんでい)です。
健児の概念はもっと昔にありますが、ここでは桓武天皇が律令制を再建した時の健児を指します。
その時の健児は次のように選別されています。
この時の健児は天平宝字6年と同様、郡司の子弟と百姓のうち武芸の鍛錬を積み弓馬に秀でた者を選抜することとしており、従前からの健児制を全国に拡大したものといえる。
どうでしょう?まさに武士の原型と言えませんか?
弓馬の必要性は対蝦夷征討の為という説もありますが、ここでは一旦置いておきます。
武士が中央より命じられて武芸の訓練を積み、装備を整えられたエリート職業軍人を元にするのならば修練が必要な弓と高級品である馬を乗り回していたのも納得がいきます。
武士は弓と馬から始まったから後の装備が両手持ちになった
ここからは蛇足の考察になります。
武士が健児から始まった、健児の影響を受けたと考えると日本の兵隊は歩兵から騎兵の急転換がされました。
これが出来たのは日本が島国で人口が少なく、大陸のように大規模な敵対勢力が無かったからだと考えます。
敵対勢力が多いと弓馬の数が足りなくて歩兵に頼らざるを得ませんからね。
そうして少数精鋭の殺戮エリート集団は馬と弓でブイブイ言わせてたので、その装備が基本となり、日本の武器は弓を基本と考えて、弓と併用出来る両手持ちの武器が主流となったと考えます。
日本の刀が両手持ちなのも、おそらくは弓との併用が前提だからと考えます。
弓兵と騎兵、または騎兵も騎馬突撃する重騎兵と騎射する軽騎兵で分かれていたらまた歴史は変わってきたと思いますが、武士が弓撃って馬乗り回す何でも屋から始まってしまったのでこんな武術体系になったのだと考えます。
最後に
いかがでしたか?
この記事は歴史検証が甘い与太話なので、「一理ある」って位のインターネット胡乱話としてお楽しみ下さい。
それでは、みんなで考察を楽しみましょう。