小説・誕生日のフライト

残業はしない派だが、月末はどうしても遅くなる。

静はある程度の仕事を片付け、今日中に送らなければいけないメールを打ち終わったところで、ひんやりした空気を吸い込み我に返った。お昼を食べて以降、休憩を取っていなかった。

3月初旬。

最近は感染症対策のため、事務所の窓は開けっぱなし。時おり冷たい風が吹き込むが、それに負けじと暖房が精を出していた。

静は一息つこうと非常口から外へ出た。

火照った体を冷まそうと思ったら、予想外に寒い。そういえば冬だった、と当たり前のことに気づいた。羽織っていた薄手のケープの前を閉めて肩を抱え込んだ。澄んだ空気が薄暗い住宅街の景色を鮮明に浮き上がらせる。

白い月が浮かぶ空は、やや薄い色をしており、日に日に昼が長くなっているようだった。

春が近いらしい。
そろそろ梅が咲くんだっけ、と静は考え、同時に父・一夫のことを思った。一夫は紅梅が美しいことで有名な寺に眠っていた。

突然の父の死に、悲しみに明け暮れたのはほんの数日。間もなく仕事に戻ると頭を切り替えた。自分の心に関係なく、明日はやってくるし仕事はある。紛らわせるのにもちょうどいい。周りに気を遣われるのも嫌だった。父の死を悲しむことより、人の目を気にすることに我ながら呆れる。しかし、私も意外と大人な対応ができるものだ、とも思った。

この日は弟・司の誕生日だった。

隣県に住む司は結婚して10年。しっかり者の妻とかわいい2人の子どもがいて、営業マンとしてバリバリ働いているらしい。分かりやすい性格で、仕事で大成功を収めて自慢したいときと、妻にも言えないくらい落ち込んでいるときにだけ静に電話がかかってくるのだが、それ以外はほとんど音沙汰がない。

帰りの電車で、
「誕生日おめでとう」
と静は兄の誠をccに入れてメールを送った。

誠も司もSNSを利用しておらず、3人のやり取りはいつもメールだった。

兄の誠も結婚8年。小さい頃から目立たないタイプだが、我が道をゆく個性派で勉強も良くできた。一流企業に就職し世界中を飛び回り、帰国時に出会い一目ぼれした妻と結婚、1児の子に恵まれ子煩悩なパパをしている。

子どものころから大人になっても3人の仲は良いと言えるほうだが、最近はお互い何をしているのかよく知らない。

昔はそうでもなかったな、と静は過去を思い出した。

全員が社会人になり、それぞれ就職すると各地に散らばった。盆や正月前になると司が「何日に実家に帰る? 合わせようよ」など連絡してくる。静と誠はマイペースであるため、放っておけば疎遠になりそうな3人をつなぎとめるのは司の役割だった。そのおかげもあってか、仕事で落ち込んだり寂しいときは、互いになんとなく連絡をした。

誠と司は結婚して守るべき家族ができると、連絡は徐々に頻度を下げ、たまに報告代わりに我が子の写真が送られてくるのみだった。かわす情報量が減ることは、各々幸せである証だった。

「ありがとう。もうオッサンだよ」

司から2人に宛ててごく短い返信がきた。30も半ばを過ぎたらオッサン……じゃあ私はオバサンか。あまり認めたくないけど事実だし、まあ誰も気にしてないよね、と静はため息をついた。

しばらくして誠からも返信がきた。

「おめでとう。おれは今からフライト」

フライト?──そうだ、すっかり忘れていたが、海外赴任のため日本を発つ日だった。赴任は半年以上前に決まっており、その1か月後には家族と一緒に行く予定だったのが、感染症の影響で状況が変わり、1人で先に行くことになったと言っていた。今日だったのか。

誠から1人で行くことを聞いたとき、静は不安ではないのか聞いたのだが「仕方ないだろ」と淡々としたものだった。決まったことなのだからそれに従うしかない。聞かずとも分かることではあった。

「気をつけて。健闘を祈る」

静もそれだけ返信した。

「行ってくる」

誠の返信で3人のやり取りが終わった。いつも通り、さっぱりしたものだった。その時、ちょうど自宅に着いた。

「おかえり」

静と同居している母・芳江の声がした。毎日早く寝ているのに珍しいこともあるものだ。

「今日、父さんのところに行ってきたのよ。梅が満開できれいだったわ」

律儀な芳江は、一夫が亡くなってから月命日前後には欠かすことなく寺へ参っている。

「そっか、お疲れさま」と静は言った後「誠兄さん、今日フライトだって」と付け加えた。

「そういえば言ってたわね。今日だったんだ?」芳江も忘れていたらしい。「今の時期に大変よね。ちーちゃんは大丈夫かしら」
ちーちゃんは誠の1人娘だ。

「カナさんとおじいちゃんおばあちゃんも一緒だから大丈夫でしょ」

「そうね」

など一通り誠の話をすると「先に寝るね。おやすみ」と芳江は早々に寝室へと消えていった。
感染症の情報も少ない中、この時期1人で海外に行くことに関して静は誠に同情していた。後でちーちゃんを連れて追いかけるカナさんも不安なことだろうに、と。芳江はそこまで考えが至っていないらしかった。
少ししてから、静は芳江が司の誕生日について一言も触れなかったことを思い出した。だからといって芳江が冷たいわけではなく、記念日などに無頓着なだけであることを承知している。

リビングに1人残された静は、久々に一杯飲むことにした。

そうだ、と思い立ち食器棚で装飾品と化していた一夫愛用のグラスを取り出した。底が富士山の形になっていて、ウイスキーを注ぐと黄金富士が浮かぶグラス。酒好きの父にと、いつかの誕生日に3人から贈ったものだった。埃を落とすために軽くすすぐ。

でもウイスキーなんてあったかな

酒が入った棚を一夫が亡くなって以来開けると、まだ5,6本は入っていた。安物の酒ばかり飲む一夫が遺したのは、意外にも少しお高めのものばかり。その中の1つは、古い知り合いからもらった年代ものの高級ウイスキーだった。
「もったいないからお正月とか記念の日に飲むんだ」と言いながら、まったく手を付けずに置いていたやつだ。その直後にガンが見つかり、絶望の淵に立たされながら、それでも治すんだと色々なことを我慢していた一夫だったが、あっけないほど短期間で亡くなってしまった。

─父さん、こんなに早くいっちゃうなら、飲めばよかったのにね。よりにもよって高いものばかり残して。

静は少し笑ってしまった。
高いといっても、5千円程度のものだ。ウイスキーだけはもう少し高かっただろうか。そんな我慢しなければいけないほどお小遣いがなかったわけでもないのに、もったいなくて飲めないなんて父さんらしい。などと思いながら静はウイスキーを取り出した。

飲みなれていないので、氷の上に少しだけ注いだ。薄めの水割りをつくると、ほんのり富士山が色づく。

─私が開けてごめんね。お正月じゃないけどいいよね

先ほどより暗闇を増した空に浮かぶ月は、より一層白い輝きを放っていた。

誠も司も同じ月を見ている──なんてことはないだろう。2人とも月を見て何かを感じるタイプではない。今ごろ司は家族の寝顔を見て安心し、誠は明日の海外での仕事について思いを巡らせているか、離れた妻にメールでもしているだろう。明日も普通にやってくるのだから。

らしくもない感傷に浸っているのは私だけかな、と静は思った。それでもいい。

─とりあえず乾杯

今月の仕事も頑張った自分へのねぎらいと、司の誕生日、そして誠の健康を祈り、静はウイスキーを少しだけ口に含んだ。

<完>


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