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「死」に気がついた話

久々にノートを書いてみようと思う。

今は通勤時間の電車の真っ最中。

時間を持て余した電車の中での暇つぶしだ。

最近、思うことがある。というか、割と毎日考える。

いつかは、死ぬんだ。

人生の終わりって考えたことがあるのだろうか。

僕は実を言うとそんなに無かった。意識してこなかった。

だが、今約30年近く続いている意識にいつか終わりが来る。

こんな当たり前のことを実感するようになったのは実を言うと、つい最近なのだ。恥ずかしい。

これまでの人生、自分に甘えて、他人に甘えて生きてきた。

辛いことも良いことも人並みにはあっただろうが、与えられた環境を自分なりにそして、人並みにやり過ごしてきた。

だけど、約1年前、僕は仕事を休職した。

本当に何もしなかった。というか、何もしなくても許される環境になった。

ほぼ本能のままに動いたと思う。人にも心配と迷惑をかけたし、もちろん多少の不安もあった。

でも、こういう状況に陥って初めて気がつくことがある。

それが、「死」

「死」に気づいたとて、何かが変わるわけではない。

自己啓発のように、「明日に向かって必死に生きよう!」とはならなかった。

だけど、当たり前のように所有していた自意識は、いつか手放さないといけない時が来るんだと、ふと気がついてしまったのだ。

怖い。

シンプルに怖い。

この「死」というものを前にして、色んなものが無意味になる。

これまで手に入れてきた財産や経験や情報は、死ねば何の意味も持たない。

この絶望を乗り越えるために、人は神を仮定し、あの世を作り出し、そこに救いを見出してきたのだと思う。

でも僕は「死」に気がつくまで、心のどこかでこういう宗教的な世界観を馬鹿にしていたと思う。

でも、今は馬鹿にはできない。

結局のところ、人生は所詮、「連続した自意識」が生み出す一つの物語だ。

そして「死」を目の前に不安は沢山出てくる。

その不安を取り除くのに宗教の存在はすごく助かるのではと今は感じている。(と言ってもそこまで詳しくはないが)

だから、あの世はあってもいいと思う。

どんな世界か勿論わからないが、死んだ先の未来を仮定することで、現実の残酷さが少しでも救われるのなら、それに越したことはない。

とまぁ、これまで「死」に気がついた、みたいな分かった風な表現をしてきちゃったけど、実のところ何も分かってない。

死を考え怖くなった、ただそれだけ。

それこそ、「死」については、死んでみないと分からんでしょ。

まぁ、でも生きて続ける限りは生き続けましょう。

最寄り駅にも着いたことだし、そろそろこの辺で。

ほなまた。

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