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【映画解釈/考察】『わたしは最悪。』「“母性”に寄りかかるパターナリズム(父権主義)①」

『わたしは最悪。』ヨキアム・トリアー
『あのこと』オードレイ・ディヴァン
『テルマ』ヨキアム・トリアー
『ロスト・ドーター』マギー・ギレンホール
『ドント・ウォーリー・ダーリン』オリヴィア・ワイルド
『MEN 同じ顔の男たち』アレックス・ガーランド
『ベルイマン島にて』ミア=ハンセン・ラブ

※この記事は、以前書いた記事を、修正・加筆して、まとめたものです。


 今回は、2022年に公開されたヨキアム・トリアー監督の『わたしは最悪。』とミア=ハンセン・ラブ監督『ベルイマン島にて』を中心に、2020年代の映画の潮流について考えてみたいと思います。

この2作品に、偶然、共通しているのが、俳優のアンデルシュ・ダニエルセン・リーの出演です。ヨキアム・トリアー監督作品の常連俳優で、監督の分身的存在です。

この2作品のアンデルシュ・ダニエルセン・リーが演じる役に共通して見られるのが、母性神話に囚われた、父権主義志向がある弱い男性像です。

今回は、『わたしは最悪。』と『ベルイマン島にて』の、社会的地位を求める女性と、母性に寄りかかる父権主義傾向の男性との関係を中心に考察し、2020年代の映画の潮流を探ってみたいと思います。

『テルマ』とパターナリズム(父権主義)からの解放


『わたしは最悪。』について語る前に、ヨキアム・トリアー監督の前作『テルマ』について触れておきたいと思います。

『わたしは最悪。』『テルマ』ともに、脚本は、『イノセンツ』のエスキル・フォクトとヨキアム・トリアー監督の共同執筆によるものです

前作『テルマ』は、だだのオカルト・ホラーではなく、テーマ性を持った寓話として、よく錬られた作品でした。

 その『テルマ』におけるテーマ性とは、パターナリズム(父権主義)からの解放です。

パターナリズム(父権主義)によって抑圧された欲望を、超常現象という形で表象していて、テルマのラストでの行動は、まさに、テルマの母親を含めた女性を、パターナリズム(父権主義)から解放するものでした。


『テルマ』から『わたしは最悪。』への深化


 そして、『わたしは最悪。』では、そのテーマ性は引き継ぎつつも、さらに深化しています。

この作品において、一見、主人公のユリヤの気まぐれによって、ユリヤの周りの人々を振り回しているように思われます。

しかし、実際は、『テルマ』の主人公テルマとは異なり、ユリヤが自由意志(選択)を行使しているように見えて、実は、ユリヤは、パターナリズム(父権主義)のループから逃れられない女性であると見ることができるのです。

言い換えると、『わたしは最悪。』は、優秀で行動的な女性が、パターナリズム(父権主義)の典型的な女性の一員として、組み込まれることに、抵抗する物語であると読み取ることができるのです。


『あのこと』で描かれるパターナリズムと"妊娠"の関係


そして、『わたしは最悪。』の中で、自律した女性をパターナリズムに引き込む手段として大きく描かれているのが、妊娠または母性です。

このことをクローズアップした映画は、『わたしは最悪』だけではなく、ここ数年、特に、主要なテーマの一つになっています。

アニー・エルノーの自伝的小説『事件』を原作とした、オードレイ・ディヴァン監督『あのこと』では、主人公が、妊娠をしたことで、大学そして、キャリアを諦めなくていけない状況に、暴力的に追い込まれます。そしてそれに抵抗するために、命がけの危険な賭けに出ます。

 つまり、主人公は、パターナリズムの中の典型的な女性に組み込まれることに、徹底的に抵抗する女性として描かれています。

アニー・エルノーの時代(1960年代)と比べて、妊娠をめぐる女性の境遇は、一見改善されたように見えますが、現代のユリヤも、根本的に、アニー・エルノーと同様の選択を迫られています。


『わたしは最悪。』て描かれるパターナリズムと"妊娠"の関係

ここからは、ユリヤと妊娠をめぐる葛藤について詳しく見てみたいと思います。

まず、ユリヤが、グラフィックノベル作家として成功している年上の恋人アクセルとの関係に歪みが生じる契機となった場面です。アクセルに子供が欲しいと妊娠を勧められます。

ここで、重要なのは、なぜ、アクセルとの関係が崩れてしまったのかという問題です。

まず、アクセルが、年上で、グラフィックノベル作家として成功している一方で、ユリヤは、優秀な人物ではあるが、社会的地位を確立できていない、 アクセルにある程度依存した女性として描かれています。

そうした中で、ユリヤは、アクセルが、妊娠して、典型的な女性のように生活した方が良いと諭します。

 このアクセルの発言は、典型なパターナリズムを感じさせるもので『テルマ』におけるテルマと父親との関係を連想させます。

 また、アクセルには、過去の作品や社会的発言など、映画全体を通じて、いくつかの有害な男らしさの影を感じさせる描写が挿入されています。

パターナリズム(父権主義)においては、妊娠を、女性の幸福な人生モデルや母性という幻影によって、受け入れさせようとしてきました。

ユリヤは、そのパターナリズムに抵抗し、アクセルと別れる決断をします。

そして、そこにアイヴィンという社会的な地位がない青年というパターナリズムを感じさせない新しい恋人との生活を始めます。

アイヴィンは、ユリヤにとってちょうど良い相手だったわけですが、この関係に歪みが生じるようになった契機も、やはり妊娠でした。

しかも、今回は、妊娠が先であり、前よりも早急に迫られる選択に直面します。これは、前述の『あること』の主人公と同じです。

ここで問題になったのが、どちらとも、社会的地位を確立できていない点です。

そこで、ユリヤは、アイヴィンを、何の責任も取れない人物であり、むしろ、自分の負担になると認識するようになります。そして、アイヴィンとの関係を解消します。


『わたしは最悪。』て描かれるパターナリズムと弱い男性

さらに、ユリヤに追い打ちをかけるようなことが、起きます。それは、アクセルの病気です。

『わたしは最悪。』では、アクセルを通して、有害な男らしさの影響を受けている男性の一面が描かれていますが、より注目すべき点は、男らしさに反する、男性の弱さにも焦点を当てている点です。

確かに、『あのころ』の時代と違って、一般的な男性は、有害な男らしさについての認識を持ち併せており、勿論、アクセルについても同様です。

しかし、パターナリズムを完全に排除できない一つの要因が、この映画の中で、示唆されています。

それは、男性が遺伝子を残そうと考えたとき、それは、必ず女性を通してでしか達成できないという問題です。男性において、肯定な妊娠とは、そのような認識の上に成立しがちなものであり、男性は本質的には、弱い立場にあると言えます。

『わたしは最悪。』の脚本が秀逸な点は、この男性の本質的な弱さによって、女性(ユリヤ)が罪悪感を抱くことを描いている点です。 そして、これこそが
現代の女性を、パターナリズムに引き込む原因の一つになっていると考えられるのです。

つまり、『わたしは最悪。』を通して、女性の幸福な人生モデルや母性という幻影によって、弱い男性が、女性に対して、妊娠を受け入れさせようする物語を見せようとしたと考えられるのです。

『わたしは最悪。』における母性神話に囚われる女性とパターナリズム


ユリヤは、その後、流産し、結果的に、社会的地位を確立します。

最後の場面では、ユリヤは、撮影監督をしていて、働く女性である女優を、励ます立場にあります。

しかし、『わたしは最悪。』の脚本は、手を緩めません。

ラストシーンでは、窓越しに、先程励ました女優を迎えに来た男性が、アイヴィンであることに気づきます。そして、アイヴィンが子どもの世話をしているのが分かり、3人が幸せそうなのが見て取れます。

 ユリヤが、自由意志でキャリアを選択したかのように見えて、『テルマ』とは異なり、実は、母性神話によってパターナリズム(父権主義)から逃れられない現実を示唆しています。

 実際は、わたし(ユリヤ=女性)が最悪なのではなく、わたし(ユリヤ=女性)の置かれている状況の方に問題があると考えられるのです。


母性神話によるパターナリズムの抑圧①
『ロスト・ドーター』


Netflix映画『ロスト・ドーター』も、『わたしは最悪』との共通する点が多くあります。『ロスト・ドーター』の主人公レダは、自分のキャリアの確立や女性としての欲動を優先し、かつて子どもを捨てたことがあり、その罪悪感に悩まされる女性です。ラストからも分かるように、一時の安らぎを得たところで終わりますが、母性神話から逃れられないことを示唆していると考えられます。



母性神話によるパターナリズムの抑圧②
『ドント・ウォーリー・ダーリン』

『ドント・ウォーリー・ダーリン』の世界は、まさに、パターナリズム(父権主義)を実現させたコミュニティーが、舞台となっています。

そのコミュニティーを破壊する契機をつくったのが、主人公のアリスです。このアリスが、後半で、実は、ユリヤと同じ、自立志向のある優秀な女性であったこととが分かります。そして、ここでも、コミュニティーにおける、アリスとアリス以外の女性を分けた要素が、母性であることが示唆されています。アリスには、子どもがいないという特徴があったのです。これは、『ドント・ウォーリー・ダーリン』の内容とリンクする『マトリックス』シリーズの最新作『マトリックス リザレクション』のトリニティの母性によってマトリックス(仮想現実)に閉じ込められていました。

そして、何よりも、『ドント・ウォーリー・ダーリン』作品の根幹を成しているのは、このコミュニティーが、弱い男性たちの暴力的行為によって成り立っていたという事実です。これは、『わたしは最悪。』と類似した構図になっています。


続く

母性神話によるパターナリズムの抑圧③
『MEN 同じ顔の男たち』




 

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