見出し画像

【小説】 木になった日 【ショートショート】

 ちょうど雲が切れるように、熱を持った飴が千切れるように、繋いだ手が離れる瞬間のように、私の日常に継ぎ手のない空白が生まれた。
 元は継いでいる状態にあるはずの日々はその一部の形を突如失くしてしまい、当の私本人が一体何でそうなったのだろうか、これは一体どういう状態なのかと幾ら思案してみても見当がまるでつかないのである。

 そしてこの異様な日常の変化こそがいよいよ悠久の時間を経る性質のものなのだと感じ始めると、のんべんだらりと脳内で現状を把握していた行為がまるで馬鹿げた幻想のようになり、今の状態を理解した途端、この悪魔に見せられている幻想のような異様な状態に初めて恐怖したのである。

 昨日までのこの時間、私は電車に揺られながら肩身を狭くしてさして興味もない世間の出来事を知る為に新聞に目を通しているはずであった。
 しかし、今日はどうだろう。
 なのと、今朝の私は街路樹の一本になり変わり、目を覚ましたのである。
 意味不明であり、最早理解者もいなかった。

 問題は山のように積み上がっているが、すぐさま頭の中に生死の問題が浮かんだ。木である私は、いずれ生物学的な「死」というものは訪れるのであろうが、しかし、この種の遺伝子というものの中に存在する死の概念とはいつその意識を失くすことになるのであろうか。
 種が生まれるようであれば、そこから更に私の子(と呼べばいいのか)が育ち、やがて木になれば、かのようにして意識を持つこともあろう。
 身動き一つ出来ず、頭の辺りを鳥につつかれてみたり、風に揺られてみたりしているが、何故だか不思議と欲求めいた感情は何ら浮かんで来ない。

 自分が木になってしまっていることを理解した途端に恐怖し、もしかしたら死によってこの意識が終わるという救いがなく、種を遺す限り未来永劫意識が続くのかと思えば更に恐怖をしたが、しかし、次第に気分が落ち着くと実にあっさりと何も思わなくなってしまった。
 匂いを感じないし、腹も減らなければ、何も欲しくはない。
 薄っすらと雨が降って欲しいとは思うものの、その要求の程度は一時間は持たないニコチンへの渇望と比べれば万分の一程にも思える。
 自分でも気味が悪くなるが、今朝木になって以降、私はニコチンをまるで欲さないことに気が付いた。
 もしもこの状態で摂取をすれば、葉脈にニコチンが流れて行くのだろうか? しかし、今となってはどうでもいいことだ。
 眠くもないし、段々と何もかも穏やかに思えて来てしまい、もうこのままでいいかとも感じ始めている。

 木になってから一週間が経った。
 私の胴には、私の顔写真の載った「探しています」と書かれた一枚紙が貼りつけられている。
 二日前に、ここへ次女の亮子が貼りに来ていた。
 家族へ対する想いはあるし、私は良き父親である自負があった。家族仲も良かったと思う。
 しかし、毎日通学の為に娘たちは私の前を往来するし、夕方になれば買い物へ出掛ける妻の姿も確認出来る。
 何度か声を掛けようとしたが、わっと驚かせることは彼女たちにとっての絶望になるのではないかという危惧から声を掛けるのは止めにした。
 そもそも、声を出してみた所でそれが人の耳に届くのかすら不明だ。

 歳月が過ぎた。
 私の前を、大きくなった娘たちが彼氏を連れて往来するようになり、やがて家族となって往来するようになった。
 妻は卓球クラブの仲間と昼間に往来することもあったが、やがて腰を曲げてゆっくりとした足取りで私の前を歩くようになった。
 たった一度だけ、私の前で立ち止ったまま私の姿を見ていたことがあった。
 皺だらけになっても妻の目はちっとも変わらず、優しい目をしていた。

「おい。何を見ているんだ?」

 そう声を掛けてみたが、ダメなようであった。
 しかし、妻はゆっくりと頷くと私の元を去って行った。何かを理解したような顔で、満足した様子だった。
 私が木であることを理解してくれたのだろうか。だとしたなら、言葉も交わせず姿形もまるで違うのに、何故だろうか。

 その理由はついに聞くことなく、妻はこの世界を去ってしまったようだ。
 ここを往来する娘の家族、その男の子供がこう言ったのだ。

「バアバが生きてたら何を欲しがったかなぁ?」

 母の日の話題だったのだろうが、私はそれで妻の死を初めて知った。
 しかし、悲しくはなかった。何故なら、それが本来自然なことだからだ。
 私の生は樹齢と共に命の行進を続けているので、その一日の体感はあまりに人間の頃と違っている。
 人間感覚でひと月は経っただろうと思えば、赤子だったはずの子供たちがランドセルを背負い、私の前を駆けて行くのだ。

 そんな一瞬のようにも思える時を生きている人間を、改めて感慨深く感じるようになったのは私が木になったことによる影響だろうか。
 近頃は娘たちにも孫が出来たようで、曲がった背中で小さな子供を連れて歩く姿を目にするようになった。 

 今さらどうこうしようとも思わないが、人間の心であればきっと一度で良いから話したいと望んだのだろう。
 そういえば私のつけた実は、どうやら銀杏だった。
 なのですっかり歳をとった娘たちから今も変わらず「臭い」と言われてしまっているが、それが唯一私が彼女たちに渡せた名残であろうか。
 過ぎる季節の一部となった今、私が想えることはそれくらいなものだ。

サポート頂けると書く力がもっと湧きます! 頂いたサポート代金は資料の購入、読み物の購入に使わせて頂きます。