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【小説】 勿忘草を探して 【ショートショート】

 庭に咲く季節の花々は、朝から気持ち良さそうに顔を並べている。
 妻の趣味で我が家の庭には数々のプランターが並べられてはいるが、私は花に疎く、どれが何の花か何度説明されてもその名前を覚えられずにいた。
 花は「花」、としか認識出来ない私に妻は呆れ果ててはいるが、幾ら花に慣らそうともそれが私の趣味ではないこともまた、存分に理解していた。

 男の趣味はやはり、バイクに限る。
 休日の朝一番にガレージへ行き、疲れた躰をほぐしてやるような気分でバイクのメンテナンスに勤しむ時間すら、私にとっては至福のひとときなのだ。

 機械の類を苦手とする妻に散々呆れられつつも、私はその朝もガレージでバイクのブレーキを点検していた。そろそろ交換時期かもしれないと思い、一旦バラしてみようかと考えていると、座り込んでいた背中に声を掛けられた。

「不良!」

 妻の声よりもひと回り上に思えたその声に振り返ると、ペラペラの黒いナイロンジャンパーを羽織った痩せた老婆が立っていた。
 髪は自分で切っているのか長さがまばらなザンバラ頭で、ジャンパーには所々に穴が空いており、カーキのズボンにも点々と染みが滲んでいる。
 私にはまるで見覚えのない、みすぼらしい老婆だった。
 徘徊中に偶然我が家に迷い込んだボケ老人だと思い、私は興奮させぬよう静かに声を掛けてみた。

「おばあさん、お名前、言えますか?」
「人の名前も忘れやがってこの裏切り者! 不良! 裏切り者!」
「あのね、お名前を、教えてくださいますか?」
「バイクに乗るなんて不良のやることだ! 不良だ!」
「……ダメだ、埒があかないな」

 実に、まいった。朝っぱらから痴呆老人の相手をさせられるとは、予想外の休日になってしまった。
 とにかく警察へ連絡し、保護をしてもらおうとスマホを取り出すと、老婆は意外な言葉を口にした。

「山瀬宗二郎に不良になれなんて教えた覚えは、私はない!」
「なんで、俺の名前を……ええ?」

 老婆は私の本名を口にした。表札には書いていないが、そもそもこんなババアの知り合いは私にはいない。
 一体、何処で私の名前の情報を知り得たのだろう?
 老婆は充血した真っ赤な目を大きく見開いた状態で、欠けた前歯を食い縛りながらこちらをジッと眺めている。
 ふぅ、ふぅ、と肩で息をしていることから、だいぶ興奮しているのが見て取れる。

「おばちゃんね、どうやって、ここに来たの?」
「コーシンジョ!」
「はい?」
「興信所! こっちは一軒一軒、確認して回ってるんだ! この裏切り者共めが! あたしがせっかく手塩にかけてやったのに、どいつもこいつも、お前まで裏切りやがって! 何が「先生のことは一生忘れません」だ!」
「先生……古川、先生?」

 思い出した。この老婆は、私が小学校六年の時の担任の古川先生だ。変わり果ててはいるが、細い目元にかろうじて面影があったので思い出せた。
 当時の古川先生は恰幅が良くて、豪快で明るくて、みんなのお母さんといった存在だった。
 担任が古川先生だったことを、よく他のクラスの連中から羨ましがられていたっけ。
 私よりも三十も年が上だったのでまだ生きていたことが驚きではあるが、こんなガリガリになってしまった今、一体何をしにやって来たと言うのだろう。

「先生、興信所まで使うなんて……一体どうしたんですか?」
「先生だと!? もうその名前で呼ぶな! おまえみたいな出来損ない、私は担任した覚えはない!」
「先生……あんまりじゃないですか」
「やることさえやれば、私はなんだって許して来た! やることはやりなさい、そう言って来たのに何で出来てない!?」
「先生、ちょっと待って下さいよ。バイクのことでしたら、僕はもういい大人……というか既に初期高齢者に近いんです。いつまでも子供」
「違う! その前にやるべきことが成されていないだろう! 私が、お金を出してわざわざ買ったんだ!」
「……はい?」

 先生は、恐らく呆けている。先ほどから言っていることは支離滅裂だし、金を出して買った物が何なのか、そもそも私にどう関係あるのかも分からない。先生は興奮が冷めないようで、ガレージの壁を素手で叩きながら怒り続けている。拳が傷になって皮が捲れても、壁を叩くのを止めようとしなかった。

「卒業式の前日! フラワーショップヤマナカで、わざわざ三十二人分も買って、配ってやったんだ!」
「……何を言ってるんですか?」
「一本もなかった! この家にはあんなに花いっぱいが咲いていたのに、一本もなかった!」

 私は嫌な予感がして、古川先生を押し退けて庭を確認した。
 案の定、庭は荒らされいて、気持ち良さそうに顔を上げていた花々は無惨にも引き抜かれ、踏み潰されてしまっていた。
 妻は朝から外出中だった為、ガレージにいた私が先生の凶行に気付くことは出来なかった。

「先生、あれはあなたがやったんですか!」
「なんでせっかく私が想いを込めてみんなに配ったのに、咲いてないんだ! なんでだ!? 忘れないようにって、そう言って渡したのにちっとも咲いてなかった!」
「ちょっと、何年前の話をしているんです?」
「何年なんて関係ない! みんな、誰も彼も私の言うことなんか聞いてない! みんな嘘つきばかりだ。旦那も、息子夫婦も、孫も嘘つきだ! だからわざわざ探して見つけたのに、おまえらも、全員嘘つきだった!」
「意味分からないですよ。もう、勘弁ならないです。警察を呼びます」
「呼べ、この裏切り者め! どうせ裏切り罪で逮捕されるのはおまえなんだから呼べ! せっかく、人が買って来てやったのに、不良だからどうせ捨てたんだろ! もういい、次に行く! 時間ない!」
「待ってください! 警察呼びますんで」
「うるさい、死ね! おまえなんかもう教え子でも何でもない! 臭い口を開くな! 死ね!」

 古川先生は意味不明なことを喚き散らしながら、足元に置いていた一斗缶のようなものを拾い上げると、ふらふらとした足取りで我が家を去って行った。
 とんだ迷惑だと感じた私は先生の変わり果てた姿から目を背けるように、バイクのメンテナンスに勤しんだ。
 昼過ぎに帰って来た妻に散々叱られ、事情を説明するとやはり警察を呼ぶことにした。
 しかし、遅過ぎたようだった。

 夕食後にテレビを見ていると、ある家に突然家に押しかけた老婆が対応で出た主婦とその孫を包丁で突き刺し、家に火を放ったという衝撃的なニュースが流れていた。
 犯人の老婆はその場で自害、主婦は死亡、孫は重傷を負ったものの一命を取り留めたそうだ。 
 炭になり、燻り続ける一軒家の映像。その門扉の周り一面に青々とした花が映し出されていたのがふと気になって、妻に尋ねてみた。

「おい。あの花、なんていう花なんだ?」

 妻は一歩間違っていたら、という恐怖の為に顔を引き攣らせながらゆっくりと答えた。

「あの花? あれは、勿忘草よ」

 私は、その瞬間になってようやく三十年前の卒業式の日のことを、そして先生から「忘れないでね」と渡された花のことを、鮮明に思い出した。

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