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【小説】 衛星が通過します 【ショートショート】

 それはふた昔も前の、初夏の出来事だった。
 田代町の住民は人を絶望的な恐怖を与える「衛星」の到来を告げる町内放送に耳をじっと傾け、戦々恐々としていた。
 町は四方を山に囲まれ、夜の帳は夕刻を過ぎるとすぐに下ろされる。地平を重たく包む紫檀色に点々と暖色の灯りが点いており、町内放送が始まると窓を開け放つ音があちらこちらから聞こえて来る。

『本日、午後六時十四分から十七分に掛け、田代町の上空を衛星が通過します。絶対に、外へは出ないで下さい。また、衛星の直視は精神が著しく崩れる恐れがありますので、衛星通過中は絶対に外を見ないよう、お願いします。繰り返します』

 これは大変だと大人達は騒ぎになったものの、子供達の中には写真機を懐に忍ばせる者もあれば、親の目を盗んでどうにか窓際に近寄れないかとウズウズした様相を呈する者もあった。
 そのような子供らは、親によって問答無用で柱に括り付けられた。
 衛星の到来は年々増えてはいたものの、その姿を写真や映像で確認出来るのは国の研究機関などに勤める一部の学者に限られていて、一般人が目にする機会はほとんどなかった。
 なかった、とはいっても目にする者はいた。しかし、その大半が衛星を目にした直後から二度と話せなくなるので、衛星の実情がどんなものかを一般人が知る術はなかった。

 その日、町一番の暴れん坊の横田将君(当時十四歳)は隣町へ出ていた。カミナリ族への憧れから日頃からバイクを乗り回し、抵抗する者には遠慮なく暴力を駆使するので町の人々を恐怖と不安に陥れていた。
 歳の離れた兄を戦争で失くした経験からなのか、欲しい物は全て腕力で奪うという思想の持主で、実家は古くから続く小さくも大きくもない酒屋だった。
「酒屋のバカ息子」と陰で呼ばれていた将君だったが、衛星到来の直前は金持ちが多いと噂される隣町までせっせとカツアゲに出向いており、帰り道ではラッキーストライクを吸いながら奪い上げた紙幣を楽しげに数えていた。

「へへ。力があればなんだって買えるんだ。働いて金を稼ぐなんてのはバカのすることだぜ」

 そう独り言ちてバイクに跨り、アクセルを吹かして田代町の方向へバイクを走らせた。
 バイクに乗ってからものの数分で田代町に入ったが、辺りの様子が妙に静かなことに気が付いた。
 車もバスも一台も通っておらず、どの家の窓もベニヤ板で塞がれていたのだ。

「なんだ。季節違いの台風でも来るってのか」

 将君は様子が変わった町の家屋を眺めながらバイクを走らせていると、背後から急接近して来たパトカーに呼び止められた。

『そこの少年、すぐにバイクを停めてパトカーの中へ避難しなさい!』
「避難? 何寝言こいてんだ、ワン公共が」
『あと二分で上空を衛星が通過します! 早くこちらへ来て、避難しなさい! 外に出ていては危険です!』
「衛星だって? そいつはいいぜ。この目で確かめてみたかったんだ! じゃあな!」
『君、待ちなさい! 君!』

 この時、将君は助かる最後のチャンスを自ら手放してしまった。何よりも自分の目で衛星を確かめたいとの思いが強かったうえ、誰の言うことも聞かないのでそれは仕方のないことでもあった。

 午後六時十四分。灯りが消された黒々とした町の空が音もなく小刻みに震え出した。夜の雲は破裂したようにたちまち四散し、星々は震えながら煌々と輝く姿を露わにした。
 震える空を眺める将君に、これっぽちも恐怖心はなかった。むしろ、好奇心が遥かに勝っていた。
 その足元の周りには、異変に気付いて飛び出した鳥達が白目を剥いたまま、ぼとぼと落ちて来た。風は荒れ、血のような錆びた鉄の匂いを町に運んで来た。やがて、耳を塞ぎたくなるほどの女の悲鳴に似た音が辺り一帯に響き始めた。
 それらは、衛星の到来を告げる現象だった。

 町の人々が懸命に頭を伏せ、屋内や自動車の中で時が過ぎるのを待つ間、将君は「根性試しだ」と笑いながら、仁王立ちで震える空を睨みつけていた。
 将君の額にはうっすらと汗が滲み、頬が微かに震え出していた。恐怖心はないはずなのに、身体は勝手に強張っていた。

「へっ! 衛星なんてこんなモンか。これしきのこと、なんでもねえや」

 そう強がってみたものの、将君の心はその目に衛星が触れた途端、バランスを崩してしまった。
 山の向こうから昇ったのは将君の想像を遥かに超える大きさの物体で、思い描いていた「衛星」とはまるで掛け離れた、月の三十倍はあろうかと見える不気味な球体だったのだ。

 衛星は珈琲にミルクを入れた時のように、その黄色の表面をオレンジ色の模様がぐるぐると渦巻いていて、辺り一帯の窓を震わせるほどの悲鳴に似た音と共に、ぐんぐん上昇して行った。
 将君はこのとき既に自我が崩壊してしまっていた為、逃げようという意識は存在し得ない状態にあった。
 そんな棒立ちの将君の身体目掛けて、衛星から一本の赤黒い蜘蛛の糸のような物が物凄い速度でするすると伸びて来た。
 糸は将君の身体をぐるりと一周すると、搾取を始めた。
 搾取を終えるまで衛星は発狂者のような悲鳴を発しながらピタリと停止していたが、無事に搾取を終えると再び動き出し、田代町上空を飛び去って行った。
 その間、わずか三分の出来事であった。

 衛星が去って行くと将君の「身体」はすぐに救助された。
 駆け付けた救急隊員達が諦め半分で意識確認をしたものの、将君がいつものように暴言を吐いたり、暴力をふるったり、喋ったり、もう何かを応えることはなかった。
 その晩。田代町の人々、そしてご両親は将君の精神犠牲に外面だけは悲しみを浮かべ、内心では安堵しつつ、衛星が無事に去って行ったことに喜びを分かち合った。

 しかし、当の将君の恐怖はまだ終わってはいなかった。
 将君を構成する精神は衛星に連れ去られてしまい、不気味に渦巻くその表面で覚醒した。
 心の意識のみで感じ取るその光景は、人の落ちる地獄よりも遥かに酷いものであった。
 あの衛星から聞こえて来た悲鳴のような音の正体は、これだったのか。
 これをやったのは、なんて悍ましい連中なんだ。

 そう感じ取れたのもほんの一瞬で、その直後に将君も呆気なくその音の一員となってしまった。
 その出来事から六十年が経ち、田代町の人々はすっかり世代交代をして新しい世代の町になった。
 田代町で将君が犠牲になったあの路上を今日も元気に、あの頃の子供達の子供達の、さらに子供達が走り回っている。

 しかし、将君だけは今も青春真っ盛りのカミナリ族に憧れていたあの頃のまま、衛星で決して慣れない恐怖の感情の中で捕らわれ続けている。
 叫んでも叫んでも、あの地獄よりも恐ろしい光景を目にした瞬間の衝撃と恐怖が、もう六十年も続いている。肉体が放棄された精神は決して果てることがないので、その恐怖に終わりはない。

 新しい世代に移り変わった田代町を将君は知ることは今後もなく、今日も地球から遥かに離れた衛星上で恐怖の叫び声をあげ続けている。

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