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いろいろな街に暮らしてきた。(その2)

今回は22歳の春、社会人1年目からのお話です。

財閥系で中堅どころの総合商社に就職し、入社後2週間、東京で研修がありました。東京勤務になるだろうと予想し、郷里や学生時時代を過ごした大阪と離れる覚悟をしていましたが、蓋を開けてみればまさかの大阪勤務。しかも社員寮は吹田市。学生時代を過ごした街に舞い戻りました。

最寄りの駅は阪急北千里駅。ビブレなどの商業施設もあり、適度に賑やかだった記憶があります。始発駅だったこともあり、座って通勤できました。会社は堺筋本町近くにあり、乗り換えなしで快適でした。

社員寮は昔ながらの合宿所のようで20代から40代くらいまでの社員が生活していました。食堂があり、共同風呂があり、色んな世代の社員がワイワイと生活していました。高齢の寮母さんが食事を作ってくれましたが、土日はなく、それでも特別におにぎりを持たせてくれたことが何度もありました。

通っていた大学にも近く、よく図書館を利用していました。同期で入社試験がブッチギリの最下位で、しかも英語も出来ないくせに商社に入ったものですから日々の業務をこなすのもアップアップで、せめて業務に差し支えない程度の英語力を身に付けようと勉強していました。また大学時代の仲間もたくさん大阪に残り、年に2度ほど温泉やスキーにみなで出かけました。大学時代の延長のような暮らしも続いていて、とてもいい時代でした。

そんな感じで過ごした吹田市での社員寮生活も2年で終わりを迎えました。老朽化のためだったか、売却のためだったか忘れましたが、無くなることが決まりました。そして入社年次がまだ若い社員は堺市に移ることが決まりました。最寄り駅はJRの鳳駅もしくは南海の羽衣駅でした。私は南海を利用していましたが、JRの方が終電が遅いため、終電ギリギリまで遊んだときはJRを利用しました。

新たな社員寮はレオパレスで、借り上げではありませんでしたが、ほとんど全ての部屋が私の同僚でした。私はこの部屋に1年半ほど暮らしましたが、とても快適でした。適度な広さの1Kで広いロフトがあり、お風呂もトイレも別で室内に洗濯機も置けて、気持ちの良いベランダもありました。新築でもありました。すぐ近くの幹線道路沿いには飲食店が充実していて、毎日のように同僚と出かけていました。私のお気に入りは横綱ラーメン。毎週通っていました。

私はそれまでなんばや心斎橋より南に行くことがほとんどなかったため、堺市は初めてでした。もうしばらくこの場所で暮らしてゆくと思っていましたが、そこはサラリーマン。転勤で東京に行くことになりました。郷里からも離れ、大学の仲間からも離れ、大阪勤務の仲間からも離れるのはとても忍びないものがありましたが、業務命令なので退社する以外は従うしかありません。入社して3年半。3つ目の場所に向かいました。

東京の社員寮は市川市。最寄り駅はJR本八幡でした。とても栄えた街で、すぐ近くに京成線もありました。社員寮はビジネスホテルのようなつくりで新しい建物でした。食堂があり、とても美味しかったと記憶しています。この寮で1年間過ごし、退社しました。

市川市は千葉県ですが、市川都民という言葉がある通り、自分が千葉県民だという意識はありませんでした。会社は神田近くでしたし、休日も東京方面に出かけていました。大阪時代も休日は美術館やギャラリーによく行っていましたが、東京は大阪よりもはるかにその数が多く、規模も大きく、たくさん楽しみ学ぶことが出来ました。わずか1年間の東京勤務生活で、東京のことをあまり知ることなく一旦去ることになりましたが、人生ここで一度仕切り直しやなあと思ったものです。

わずか4年半の会社員生活。3つの場所で暮らしました。
吹田市藤白台〜堺市鳳中町〜市川市本八幡。

全て社員寮で、まだ時代が良かったのか、光熱費込みの住居費も格安でした。今思えば夢のようですが福利厚生が厚く、短期間ですが大企業を経験出来たのは社会勉強にもなり、この社会のひとつの基準を知ることにもなりました。

そして退社後間もなく、私はアメリカに向かいました。2001年9月〜10月。イチローや野茂、新庄を観るためにくまなく周遊するつもりでしたが、渡米後すぐに惨禍があり、それでも20試合近く観て来ました。各地の美術館を巡り、小澤征爾のタクトを振る姿を観て、まだ本格的に写真を始めていませんでしたが幾らかの写真も撮りました。そして帰国後、写真の道に進もうと準備を始めました。27歳。一度郷里に戻り、母校で後輩にノックを打ちながら次の道を模索し始めました。


続きは次回に譲ります!今回もありがとうございました!




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