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『遠回りして辿り着いた場所は、旅の途中だった』存在を証明できない私たち#01

 新宿は、懐が深い。
 雑多で猥雑で下卑ていて、優しい。
 どんな人間が現れようともやんわりと、そのかたちのままに受け容れる気風を感じるのだ。

 私はこの街が好きだ。ほとんど一方的に恋しているといってもいい。
 人生のどこにも居場所がないと思い込んでいたあの頃、JR南口から甲州街道を御苑にぶつかるまで行って、北上して2丁目から3丁目と一周して伊勢丹を眺め、紀伊國屋で立ち読みをして帰った。金もなく学もなく、唯一手にしていたはずの時間さえドブに捨てていた。そんな頃から今日に至るまで、新宿は私という益体もない存在の受け皿だったように思う。


 この日、私はやり直す思いでそこにいた。
 3年ぶりに真美さんと会うのだ。

 真美さんは、私と同じく化学物質過敏症と診断されている。

 彼女と出会ったのは、私が『転校生はかがくぶっしつかびんしょう』を上梓する直前で、お互いnoteで綴っていた闘病日記に興味を抱き、連絡を取り合った。
 真冬にかき氷を食べに行こうという酔狂さにも惹かれて会ってみたのだが、それから間を置かずに3、4度と会って話す仲になった。だから、同じ発症者の仲間というよりも友人関係に近い。
 しかしその後私は啓発パンフや漫画制作、彼女は症状を重篤化させるなどあって便りを絶っていた。

 その間もSNSでなんとなく互いの様子は見えるので、2人とも同じようにどうしているか気にかけ、声をかけるタイミングを測っていたのだという。友情だなぁ。
 思い切って連絡してみると、あの頃かそれ以上のとんとん拍子でご飯に行こうと日時が決まった。
 それで、新宿だ。


 再会して驚いたのは、あの頃よりも格段に、2人の間にある空気がなんとも良い。これは肌で感じるものであって説明がつかない。そうだった、としか言いようがない。
 互いを思いやり、それを互いに認識しあい素直に受け取り、素直に応える。決して押しつけず、つまらない解釈をせず、あるがままに受け容れながら、相入れない部分は棚にあげて追求しない。敬意が言外に感じられる清涼なやりとりがそこにあった。
 これがうまくいかないと、言葉はつっかえ、揚げ足を取られ、混ぜっ返され、余計な解釈と腹の探り合いでヘドロ溜まりになる。

 交わって、流れる。

 私たちは川のように歩いて、話した。
 3年間、どうしてた?
 何があった?
 自分のこと、家族のこと、友人や周囲のこと。
 病状、治療、新しい趣味や気づいたこと。
 仕事……

 私は行き詰まっていた。

 というほどではないけれど、ひとつ連載が終わり現状最終となる巻が配信されると、達成感よりもむしろそれとは似ても似つかない虚無感を抱えるようになった。
 8月にNHKの情報番組で作品が使用され、翌9月にその続刊が電子配信されるというタイミングだっただけにそこまでが気忙しく、10月になると季節も相待ってもの寂しく感じているのだろうと思っていた。

 次に何をすればいいのだろう。
 虚しさは、私の中で化学物質過敏症を取り巻く状況にも重なっていた。


「私たちが普通に使用している日用品や香り製品で、体調を崩してしまう人たちがいます」

 アナウンサーが深刻な声色で訴える。ライターは精緻な文章で伝えようとする。
 その出だしを、私は期待と緊張を持って迎える。

「どのくらい踏み込んで報じられるのだろう」
「『気のせいの可能性もあります』なんて言われないだろうか」
「体質の問題に落とし込まれないだろうか」

 祈る思いで最後まで確認して、だいたいは「よかった」「ありがとう」「よくぞ言ってくれた」と思う。

 ホッとして、お礼のメールをしたためる。
「苦しんでいる一人です。特集してくださってありがとうございました。どうか引き続き、この問題を追いかけてください」

 こんなこと、何度繰り返しただろう。


 私が発症したのは2017年。
 当時は好意的な記事も少なく、メディアの特集なんて夢のまた夢のように思えた。
 人々の口にあがるのは、「何かの間違いだろう」という前提が透けてみえる心無い言葉。「気の持ちよう」「好き嫌いの問題」あるいは「過去のトラウマのせいでは」など、残酷な自己責任論に押し込められそうになっていた。
 私が絵本や漫画を作ろうと思ったのも、その状況は打ち破るべきだと感じたからだ。私たちは〝トンデモ〟でも〝見せ物〟でもない。

 そういった過去を思い返せば、この6年、多くの方々の甚大な努力によって、雑誌、ラジオ、テレビなど、あらゆるメディアにおいて、より正確に、好意的に、現状が報じられるようになった。

 素晴らしいことだ。本当に素晴らしい。
 本当に……

 そこで、つい立ち止まってしまう。


 それぞれの方法で訴える発症者がいる。報じるメディアがある。おかげで認知が広がった。
 だけど今日明日にでもこの世の中から、すべての反応する〝もの〟がなくなるわけではない。
 いきなり窓を大きく開け放てるようになるわけではない。

 それはわかっている。

 頭痛を起こさずに街を歩いたり、覚悟を決めなくても余裕で電車に乗ったり、なんの心配も苦労もなく、他の人と同じように、やすやすと学校へ行ったり、働いたり、友達とランチを楽しみ、映画を見て、図書館で本を借りて、コンサートで盛り上がる。それらが全部、一夜のうちに叶うことは絶対にあり得ない。

 それもわかっている。
 それでも行動している。努力している。

 それに、協力してくれる人だっている。それも理解している。

 でも、思うのだ。

 いつになったら、息ができるようになる?


「私たちが普通に使用している日用品や香り製品で、体調を崩してしまう人たちがいます。予防のためにも、使用する製品に気をつけたいものです」

 そう報じられた、そのあとは?


 私は相変わらず窓が開けられない。
 家族が買ってきた生鮮食品のパッケージを引き剥がして、洗って、詰め替える。
 一日外出したら、翌日は体が動かない。
 怯えながら友人と会う。
 あの職場に、戻っていない。

 6年。
 何一つ変わらない生活をしている。

 絵本、パンフレット、漫画まで作って、果ては公共放送局でも取り上げられて、それでもまだ私は呼吸できないでいる。化学物質過敏症の発症者は、増える一方だ。


 想像してほしい。
 息ができないのだ。
 それがどんなことなのか。
 呼吸。生命の根幹だ。


 怒りと虚しさを抱えていた。
 それから特大のかなしみを。
 だがもう、涙も枯れ果てた。


 明治通りを南下して、神宮通りとの分かれ道。
 話も尽きかけた信号待ちで、私は喉から絞り出していた。
「真美さん、私は次に何をしたらいいんでしょう」
 ところが彼女にはひらめきがあった。
「みんなの声を集めるのは?」

 私はあっと声をあげた。
 信号が変わって、周囲の景色が動き出す。

 それは1年前からぼんやりと思い描いていたことだった。
 あまりにも淡いアイディアで、輪郭も曖昧だったため、浮かんでは泡のように消えていた。


 私の主治医はこう言った。
「我々医者も頑張りますが、世論を動かすのは結局患者さんご自身の声だと思います」
 しかし不思議に思っていたのだ。ためしにSNS上で「化学物質過敏症」と検索すると、声高に苦痛を訴えるアカウントをいくつも見つけられる。
 それなのに、なぜ届かないのか。
 なにが阻害しているのか。
 それらの声は、無駄ではないはずだ。

「そのひとつずつを拾い集めて、世間に届くように整えることができる人がいるとしたら、あなたじゃないかと思う」
 褒めじょうずの真美さんに励まされ、奮い立った。


 私たちは休憩をとり、所用を済ませると、また歩き始めた。
 次々溢れる思いつきを、堰を切ったように語り合った。
 気がつけば来た道をそのまま北上し、新宿へ戻っていた。

 高島屋の脇の、天へと続きそうな長いエスカレーターを登る。

 私ごときにできるだろうか……
 最後までやり遂げられるだろうか……
 それら頭上で渦巻いていた、意気地のない弱音をかなぐり捨てる。

「やろう。1人でも多くの化学物質過敏症の声を集めよう。何をどうしたらいいのかさっぱりわからないけれど、私はやる。伴走を頼みます」

 新宿は、まだ旅の途中だった。


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※この記事は事実に基づいていますが、登場人物は仮名を使用しています。


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