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映画 『[窓]MADO』もう一度見た

昨年の池袋から2回目の鑑賞。
渋谷ユーロスペースの最終日に滑り込んできた。

前回感想はコチラ↓↓


今回は5年の付き合いになる化学物質過敏症の友人と一緒。
彼女は元喫煙者で発症者でもある。

友人曰く、鑑賞前から
・過敏症として感情移入すると辛くなるだろうから俯瞰で見よう
・映画はフィクション。本当の訴訟とは別物
・これは『化学物質過敏症を紹介する映画』ではない
という心構えだったとのこと。
こういうところが、この人と友達になれてよかったなぁと思う部分のひとつ。

感想、第一声

「私はリアルに感じられたなー」
「一番ひどかったとき、あれくらいのたうちまわった?」
「もっとひどかった。マンションから飛び降りようとした」
「私は首吊ろうとした」
「こうして生きて、また会えてよかったー」
と笑って、涙。
そして今この瞬間も、息ができない人のことを思って、また涙。

「今、症状が落ち着いたから冷静に観られる映画だな、とも思った」
私も同意した。
5年前なら、平常心を保てなかったかもしれない。
あの頃は、それくらい辛かったし、追い詰められていた。

「うちの父は、まだ煙草やめてくれないんだ」
と、彼女がぽつり。
「娘が発症しても、禁煙してくれない。父には会えないの」
それでも家族だ。
避けなければならなくなったとしても、恨む気持ちはないようだった。

私の父もかつては喫煙者だった。今も「ニオイ」に鈍感だ。
うっかりしたことをやっては「ごめんごめん、俺わかんないから、言って」と済まなそうに謝る。
そんな彼を、鼻バカの悪人とは思いたくない。

移住を考えて某所へ向かった、父が運転する車中、後部座席で私はのたうちまわった。
ガソリン、シートのウレタン、振動、窓から差し込む強烈な太陽…
出発して1時間程は平気だったのに、突如限界が訪れたように、
「うあああ!」
と叫び、頭を掻きむしって暴れた。

脇に寄せた車から歩道へ転がり出て、田舎暮らしに必要不可欠な車に乗れないことを悟った。
父は一人で車で帰宅し、私は見知らぬ町を歩いて駅から電車に乗った。

「人生は、近くで見ると悲劇だが、遠くから見れば喜劇である」
——チャールズ・チャップリン

映画に戻る。
友人が語った。
「『二つの家族と、それを取り巻く団地という環境での人間ドラマ』としては周囲に勧められそうだけれど、『化学物質過敏症ってこういう症状だよ』という映画ではないから、その説明がしたいときは別の作品を選ぶかな」

ただ、外部から見る発症者の姿というのは、ああいうものなのかもしれない。
生きたくてもがき苦しむ姿というのは、そうでない人から見れば、ひどく滑稽なものなのかも。

私の車中の悶絶も、まったく知らない人が遠くから見たら、笑っただろう。

他者の悲しみ、苦しみを、自分のこととして受け止めたい。

2回目の鑑賞は、特に備井家に寄り添おうと思って、観た。
1回目は、どうしても発症者の視点から離れられなかったからだ。

そうして観て、ある日突然訴状が届く恐怖を感じた。
やっていないという証明はできない。できないことはないかもしれないけれど、やった証明より格段に難しいだろう。
公判の日まで、気が気じゃない。
もし有罪と言われたら、どうなってしまうのだろう。
家族は? 仕事は? 家は?
普通に暮らしていたのに、やましいことはないのに、疑われる辛苦。

それは、呼吸ができないことと同じだと、気づいた。

両家族は、形は違えど、同じ苦しみの中にいるのではないか。

他者の苦しみを、自分の苦しみとして、体の中に受け入れてみる。

たとえ理解できなくとも、相手の苦しみを、その”かたち”のままに、飲み込んでみる。

江井英夫の苦しみも、英子の苦しみも、否定せずに飲み込んでみる。
英美の苦しみは、無論、息ができないことだ。
でもきっと、それは私の体験した苦しみとはまた違うものだろう。
備井美井夫や、美井美の苦しみはどうか。
寡黙な父娘にも、苦しみはある。微細な表情から、それを受け取る。
美井子は作中誰よりも強い人物に見えたけれど、涙ながらに心情を吐露していた。苦しいのだ。

それらをそのまま、飲み込んでみる。


誰もが生きづらさを抱えている。
誰もが、息苦しさを感じている。

何が真実?
何が原因?
何が正義?

私たちは”正解”を求めるあまり、他者の苦しみに寄り添えない、不寛容な人間になってしまっていないだろうか。

「真実は見えていますか?」

私はこのキャッチコピーにこう答えたい。

「いいえ。見えていません。これからも、見えないと思います」

私の見た真実は、私の真実でしかない……かもしれないのだから。
見えないからこそ考え続け、他者の苦しみを、ありのままに飲み込み続けます。



ここから先は、書こうか躊躇った。
しかし、私は正直に曝け出そうと決意した。

乱暴な物言いをお許し願いたい。

この映画は、どんどん具合が悪くなっていく娘を助けるために、多少妄信的になりながらも、必死に対処しようとする江井両親の姿が映されている。

ここで加害者備井家、被害者江井家の構図が出来上がる。

しかし終盤、実は……という展開があって、物の見方がぐるっと変わる、ように思える。
江井英夫の嘘が暴かれ、まるで加害者と被害者が入れ替わるような展開だ。

そこで、多くの方がこう感じるのではないだろうか。
「真実が見えた!」
「犯人を見つけた!」
「これがこの映画のテーマだ!」

本当にそうだろうか。
私は、勝手な解釈なのだが、それこそが”真実の落とし穴”ではないかと思うのだ。

そこで思考を止めてしまったら、我々は物事を”正誤”や”真偽”でしか見られなくなる。
正義と言った瞬間に、誰かが悪と断じられるなら、私は正義を手放そう。
柔らかく、複雑で、居心地の悪い、カオティックなグラデーションに身を委ねよう。

裁判の争点と結果は、字幕として出てくる。
しかし劇中に裁判の様子は描かれない。
この演出の意図は?

これは誰かを裁く物語ではない。
ふいに、そう感じたのだ。

人間は複雑な感情を有した、主観的な生き物だ。
そして社会性の動物であり、それゆえに他者との濃密な関わりの中でしか生きられない。

なぜ江井英夫が嘘をついたのか。
彼の苦しみを飲み込むまでに至れることが、”思考し続ける”ことなのではないか。

同時に、化学物質過敏症を発症し、他者の使用する日用品や嗜好品によって著しく体調を崩す私も、この映画がそこまでの深みをもって描かれている、と飲み込む。

意外に飲めちゃうかもしれない。
いいや、大変な痛みをともなうかもしれない。
それでも、飲む。

立場の違う、理解できない相手とも、共生していく。
それを可能にするのは、くさいことを言いますが、愛だと思うのです。
抱きしめて、話はそれから。

大丈夫。私たちなら、きっとできる。

信じること。
痛くとも、苦しくとも、他者を飲み込む。
そして同じように、他者の愛を信じ、委ねる。

被告側となったB家の監督と、化学物質過敏症の私。
去年の池袋以来の再会となった私たちは、ユーロスペースの片隅でハグをした。

同行者を「過敏症仲間」と紹介すると、監督は彼女とも握手しようと手を差し伸べた。
戸惑う友人。
「あ、彼女は触れないんです」
と、私が介入すると、監督はさっと引っ込めて、何かを思いついた。
「じゃあエアハグで!」
2人は空中で、気持ちで抱きしめあっていた。
一連、澱みなかった。

そう。大丈夫。
こんなに違いがあっても、私たちはみんな、きっと共に生きていける。
信じて、私は今日も窓を開ける。


2023.12.06追記

当該記事と冒頭で引用した前回記事は、あくまで映画を鑑賞した個人の感想です。また私は映画の関係者ではありません。
この息苦しい世の中をどうにかしたいと思う者の一人として、情熱と寛容さをもって鑑賞しました。

創作物が現実に与える影響や、この映画が事実に基づくと全面に押し出していることを踏まえても、作品と実際の化学物質過敏症は異なるものだと考えています。

柔軟な視点を持つ=窓を開けることは、意見が違い理解しえない相手同士でも共存共生の方法はあるとする態度だと思います。それがどんな立場だったとしても。

化学物質過敏症はさまざまな反応の出る症候群であり、その原因となるものは多岐に渡るといわれています。他の疾患や外傷からの併発もあれば、農薬、シックハウス、柔軟剤などもあるでしょう。
いずれにしても、発症されたすべての方が少しでも楽に呼吸できますことを。


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