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映画から眺めるインド社会④ 炸裂する母親パワーと息子

※書き始めたら長くなってしまったので、関連する作品を先に挙げておく。

『バーフバリ 伝説誕生』『バーフバリ 王の凱旋』(テルグ映画)
サラール』(テルグ映画)※祝7月日本公開!
Rocky and Rani ki Prem Kahani』(ボリウッド映画)※日本未公開
Kumari』(マラヤーラム映画)※日本未公開
『RRR』
Heeramandi
Bhoothakaalam』(マラヤーラム映画)※日本未公開
『マダム・イン・ニューヨーク』(ボリウッド映画)

インド男メンヘラ列伝みたいなのを書く自信はすごくあって、いつでも書けると思う。皆の大好きなスターの演じた役をぼろかすに言うことも、そのついでに私の痴話げんか話を挟むことも楽しみだ。その一方で女の表象については非常に悩んでしまう。今回ここで練習してみたいと思う。

日本では、インドは女性が一人で旅行するには危険だと言われる。悲惨な事件が次々に発覚する国であるし(スマホに入って来るニュースがひどい)、女性に対する暴力や抑圧が常態化しているのは事実だと思う。

その状況と時に連動して見えるのがヒンドゥー神話である。ラーマ&シータという『RRR』でも言及される位の至上のベストカップルがいるのだが。ラーマがハヌマーンの力を借りて悪鬼ラヴァンナに攫われたシータを取り返した後がひどい。その旅を描いた『Adipurush』はシータ奪還!で終わっているからこそプラバースのようなソフトでクリーンな役者がハマったのだと思う。

ラーマは「シータがラヴァンナとやってないという確証がない」とメンヘラ化するのだ。困ったシータは(多分ブチ切れて)火の中に飛び込んで潔白を証明すると共にラーマに自分を与えないという罰(言い換え)を与えようとしたが、火の神アグニが彼女を復活させてしまって仲直り!シータの主体性はここで一度台無しにされる。

これで終わらず、後にラーマは、配下の人民にシータ妃が不人気と知るや(自我は無いのかよ)、シータを森に追放してしまう。男が何か本気を示すために女を使い、女は超常現象の力を借りないとメンヘラ男の目を覚ますことが不可能、つまり絶対無理だということが示唆されている。一方、王という存在が、最も権力を持った男なのに臣民の倫理的非難には弱いこともうかがわれる。

他にシャークンタラ姫の話も結構ひどいのでぜひお調べください。

そんな悲劇のヒロイン気取っても全くやってらんない状況(息子100人産むことに承諾する等)で、女が本当の権力を発揮し始めるのは息子の母親になった時だ。

インドママ列伝① 息子と国政の間で激しく苦悩した国母


大好きなスタンプです

テルグ映画ファンにとってのインドママと言えば、『バーフバリ』のシヴァガミ!ツイッターでは「カレー粉で炒めた藤原紀香」と絶賛。三白眼どころか四方が白目の顔でにらみを利かせる。

シヴァガミの悲劇は、インドママをインドママたらしめる「息子」への異常なまでの思い入れを、鬱屈した夫ビッジャラデーヴァに利用されてしまうところから始まっている。

シヴァガミはすべてを手にする国母でありながら、禁欲的で清廉潔白であろうとし、己の欲望を抑圧してきたのだと思う。子育てと教育もひと段落し、忠実な息子二人(バラ―のそれは仮初の姿だったのだが)を前に一息ついたところで、「息子を思うとおりにコントロールしたい」という有害な母親欲を夫の計略によって引き出されてしまった。「あたし」が出て来てしまってはいけない、という統治者としての責任感と、インドママとしての欲望。しかも、その思いが「嫁選び」というところで炸裂するのが熱い。

嫁・婿選びという場面では、国や文化に関わらず、権力者や富豪が皆その欲望や願望や期待を炸裂させることで知られている。話としてはそう来なくちゃ!と思ってしまうのだが…。

ちなみに、バーフバリが惚れたクンタラ国のデーヴァセーナ姫は、「私がそう決めたから結婚するのだ」というところに拘っている。バーフバリの魅力(はぁあああん)=プル要因だけで結婚を決めていないところが、いかにも逆境を逞しく主体的に乗り越えるラージャマウリ・ヒロインらしい。

しかしビッちゃんの策略により、既にシヴァガミは、もう一人の王子バラーラデーヴァにデーヴァセーナ姫を嫁がせる(彼女の意思を無視)ことを決めている。一回決めたことを覆せない国母の生真面目さを知っての策略だッ!すごいな夫!!妻の全てを把握しているなんて。ドロドロのマヒシュマティ王家。愛してたんだろう?ビッちゃん…

バーフバリはもう尊すぎて概念に近いと評される位の人格者だ。故にママを最大限傷つけないように「一回決めたことを覆すのはママの考えに合わない。もうこの人に僕の命あげるって約束したんだから!」というちょっと弱い論法(ちがったらごめん)でシヴァガミに挑むも返り討ち。彼の自分に対する「反抗」を断固拒絶するママ!!

頼もしい!

後にこれがすべて夫の「バーフバリを亡き者にし、自分の嫡子であるバラ―を王にするため」の策略だったことと、己の気の迷いが生んだ悲劇を悟ったシヴァガミの最期の贖罪が熱い!!!

ってやっぱり女性が命捨てないといけなくなる話ではあるんだよね。デーヴァセーナも大変なことになるし。そんなドロドロの中で精製されたママと息子(グランマとママと息子)の絆は絶対だ。『バーフバリ 王の凱旋』冒頭での息子と母の密着性に驚いた体験は、インドを理解するにつれ、間違っていなかったと思う

続いては、息子の自我を削除して息子を通じて自分の人生を完成させるタイプのママの狂気を取り上げたい。

インドママ列伝② 最強の息子という凶器

https://note.com/takemigaowari/n/nd3e053f9841b

7月に日本公開も発表された(おめでとう!)『サラール』主役のデーヴァの母親は、インドママの狂気を煮詰めたような人物だ。母性を煮詰めた存在なので役名も無い。監督のプラシャント・ニールは『K.G.F.』二部作を大ヒットさせた監督である。私は『サラール』を観てようやく彼の世界観に追いつくことができた。

彼の世界では全ての主要人物が有害な空気か薄幸な空気をぷんぷんさせている。搾取するかされるかしか関係性が存在しないし、若い女の役割は妊娠するか暴行されるか死ぬか!このポリコレの時代なんかお構いなしなのがたまらない。一方ではアメリカ映画では性描写がぐっと減って、逆説的に、規制の厳しいインド映画に表面的に近似していく現象まで起きている。グローバル・サウスの盟主インドの映画はインド外交同様、その都度の派手なプロミネンスを放って我々をびっくりさせるものの、本質は一切変わって行かないことだろう。

本作が面白いのは基本的に男の物語でありながら、ママが息子を永遠に支配するという「有害な母性」が本当の骨子なのではないかとも思えて来るところ。なぜか父親が不在なのだ。父親なんかいたら面倒くさいのだろう。もしかしたらニール監督は父親と何かあったんだろうか(邪推)。

インドの息子と母の強すぎてお互いを破滅させるようなエネルギーが詰まっている本作をぜひ楽しんでいただきたい(こういうことを『K.G.F.』の解説を書かせてもらうときに思いついていたらよかったんだが)。

ママの狂気は息子にとって致命的だ。彼女がきちんと導かなければインドの息子たちは何も決めることができない。ところで彼らはそんな男でいいんだろうか。

日本でもそういうフシはあるものの、「マザコン」「冬彦さん」等の言葉が出て来る通り、ママの言うことばっかり聞く男は気持ち悪い、という意見が女性の側にもある(もちろんそれが、結婚したときに大きな障害になるからだが)。この意見は、インドでも同じだと思うのだが、インドでは①結婚は「家と家の結合」であるからお見合い結婚が今も主流である+②インド映画が参照するインド神話が男性目線である+③インド男はインド神話のロマンティックな世界に逃げやすいのでメンヘラ化しやすい、というような条件により、どうも息子の本音がよく分からない。

次の作品では、女が家長であるにもかかわらず、女家長が息子(父親)と恋人のように通じあうことで、嫁や娘の人格や判断が否定され、若い世代の息子はそれに対してどうするんだと迫られている。

インドママ列伝③ 家父長ならぬ家母長の有害さ

『Rocky and Rani ki Prem Kahaani』(ロッキーとラニの愛の物語)では、湘南乃風めいたオラつきを全面に出すパンジャーブ系の家の息子ロッキー(クィアセンスに溢れたランヴィール・シン)と、スノッブなインテリ臭を隠しもしないベンガル系の家の娘ラニ(勇猛さで知られるアーリアー・バット)の家が対照的に描かれる。

ラニの家では、娘に教育を施し、自立させることを何より喜んでいる(進んでいるからショートカットの女性が出て来るのだ!)という設定になっている。監督のカラン・ジョハル(ゲイです)は、本作でインド社会にある男女の役割についての考え方の害を指摘しようとした。その脈絡で、ロッキーの家の家長を女(苦虫かみつぶしたみたいなジャヤ・バッチャンが最凶)が務めているところが面白い。彼女も、自分の息子(ロッキーの父、ハンサム)を精神的に完全支配している。が、彼はそれが全く不快ではない。夫(父)が亡くなっているから余計に母と息子二人の関係は近く、ほぼすべてを分かり合っている連れ合いのようだ。

冒頭でロッキーの母が嫁いでくるときの祖母=家母長の態度がひどい。ある意味家父長の毒を更に煮詰めて代行しているのである。そこでは嫁は常に否定され、ロッキーの姉の夢も頭から否定される。ロッキーと父や祖母が揉めるときの、ロッキー母のあのとりなすような表情。私もそれを実家で観たこともあるし、みんなにとって何となく苦いシーンだ。

同作は、他の最近のボリウッド作品と同様、息子が家に反抗して自分の願いをかなえることがいかに困難であるかを見せるだけでなく、いかに多くのインドの男が家に反抗しないか、ということを暴露している。だって、家長の言うとおりに生きて、家のお金でビジネスできた方が都合がいいわけでしょう。

ロッキーの家ではファミリービジネスの勃興に関わった祖母が権力者の家母長になって家族を苦しめる。これは、男のやることを内面化しているから、という女性への擁護は成り立つであろう。では、父母間の闘争により、はっきり父系から母系に権力移譲が行われた場合はどうなのだろう。

インドママ列伝④ 男性→女性への権力移譲の行き先

『KUMARI』は、『KANTARA』と似た、南インドはケララの地元信仰に基づいた物語で、二つの超自然的な勢力の争いが、主人公の女性Kumariと夫の戦いとパラレルに映し出され、最後Kumariが勝利する。その勢力からの恩恵を得るために絶えず犠牲を強いていた父系の時代が断罪されるのである。

父系に対する母系の始まりは、いかにも、より分配的で自愛に満ちた時代の始まりであるかのように描かれる。しかし、その後の最後のシーンは不穏だ。その家が関わって来た超自然的な勢力は残っているのだ。家が母系に代わったからと言って、別の形の「犠牲」が必要になるのではないか、または同じことが母系家族のもとでまた最初から始まるのでは…そういう不安をホラーの演出(怪異は終わってないよー)として差し挟んでいるところが、ホラーとしてはつまんないな(なんせ私はアメリカ的ホラーの問題解決物語が好きだから)、と思わせるものの、社会的な意味を考えさせてくれるのだ。

ときどき「男尊女卑が強いインド」のイメージと「女性が管理職やリーダーでばりばり発言しているインド」という二つのイメージに整合性が無いように感じている人の意見を読む。私もどういうメカニズムなのかはまだ計りかねている。何せ私の観て来たインド映画では、女がリーダーや指導格になることが、その人の人間的自立と結びついた物語になっていないことが多いからだ(皮肉にもアグニホトリ監督『The Vaccine War』位は辛うじて「個人」が出ていると思う)。

家族主義の強いインドで、父親格の者が早死にしたり、使い物にならなかったり、不在だったりした場合、家の柱になるのは家族である限り、女でもいいのだと思う。『RRR』でもそれが出ていた。普通選挙がようやく始まったばっかりの時代のイギリスで、軍人スコットの不在中、妻のキャサリンが政に口出しするということはあり得たのだろうか。インドではあり得たのだろう。インド人の描くイギリス人は、素行の悪い威張ったインド人のやることを全部なぞっている(韓国映画の中の日本人もかつてはそうだった)。

実力者の一族なら女でも政治に参加できた。インディラ・ガンディー首相という実例もある。インドの家族主義とネポティズムのなせる業なのだと捉えると、インドは日本よりも女が実力を発揮できる社会だといえるのだろうか。家族という集団パワーの表出に過ぎないのではあるまいか

最新のドラマ『Heeramandi』では、芸者の女たちが世の中に対し怒りを表明し頂点に達するポイントが、「インド独立≒イギリス圧政への反抗」として偽装されている。が、同作はそこに更に「国が独立を果たしても女に自由は訪れなかった」というメッセージを埋め込んだ。「女たちのRRR」…なんかじゃないんだよというひねりが効いている

最後に、嗚呼インドでも有害な母性が息子の人格をぶっ潰すことをホラーの背景として描く映画があるのかと感心した(私そういうの好きなんだもん)作品を。

インドママ列伝⑤ 息子よ、一緒に不幸になっておくれ

https://note.com/takemigaowari/n/n45511e878d32?magazine_key=m693a3ebbb602

既に「若い男たちの就職先」で触れた作品だが、今回は母親の方にフォーカスしたい。

彼女は、若い時に夫が出奔し、息子を一人で育て上げ、今や祖母の介護までしており人生に疲れ切っている。引っ越してきた家での息子との息詰まる生活に依存しつつも、そんな状況を憎んでもいるように思うが、彼女としては、息子ちゃんに家を出ていくようには言いたくないのだ。インドママだから…。或いは、全てを家族のために捧げてしまったママは、家族に依存しない自分も息子も想像できないのだと思う。

教育も受けて来た息子ちゃんは、既に就職して家から出ていく努力をして来たにも拘らず、ママの干渉によってくじかれている。ママは、息子にしっかりして欲しい一方で自分の思い通りに動かないことが気に食わない。息子はアルコール依存に陥りぐちゃぐちゃになって行く。

(今もう一度最後を見直したが)ラスト、幽霊の棲む事故物件であったその家から、傍目には仲直りをして離れることにしたわけだが、次の家で、幽霊という緩衝材、そして二人の本音をぶちまけさせたり、ガス抜きしたりする仕組みを欠いた家で二人はどうなっていくのだろうか。二人の「不仲」の本当の原因は、家の過去≒亡霊のせいだけではないことは明白だ。ママとしては、孤独になる位なら、息子よ、一緒に不幸になって人生を分かち合ってくれぇと思っているように思われてならない。これもまた、「人は実家から自立すべきだ」という現代日本人の考え方に過ぎないわけだが。

本作本当に色々考えさせられるくらい演出も上手く、手堅いホラーなので日本でもやって欲しいものだ。

長くなってしまった。が、もう一つ取り上げるとしたら、この作品であろう。

インドママ映画の中で『マダム・イン・ニューヨーク』を大きく取り上げない理由は、どうもあれは、監督さんの自分のご母堂に対する「ごめんなさい」の映画に見えるからである(そしてやっぱりそうだったみたい)。「母はあれでいいの」という形で母の尊厳をそっとしておく形にしている。それが一部観客にとって不満に思う結末でもあるだろう。あんな家なんか出ちゃえ!って。でも結局母がそれをしなかったことが、あの家の娘≒多分監督を救って来たのだろう。そういう立場の娘として言えることは何だろうか。ごめんなさいとありがとう、なのだろう。

書いてみて思ったが、ママと息子の関係は描けても、ママと娘の関係がよく分からない。私の好きな映画にそれが出て来ないと言うことなのかもしれないのだが、ママと息子関係の強烈な表現は非常に印象深い。そして、家族の言うことに反抗し家を出て行ってしまうインド人が多数派にならない限り、インド映画を彩る要素であり続けるだろう。



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