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こどもとかオトナとか

ここのところ「感情ぶつけられる祭り」だった。向き合っている相手がことごとく私に感情を剥き出しするキャンペーンだったようだ。
園子温監督の「愛のむきだし」という作品があるが、タイトルを付けるならまさに「感情のむきだし」だった。

中でも露骨だったのが母である。母の日だったし、たまたま休みだったので電話をかけたら「イベントなんて私は無関係だから。」とカワイゲのない台詞を吐いてきた。いつものことなので、軽く流して1時間ほど話して通話を切った。

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しばらくしてから、また母からLINEがきた。「Zoom参加はどうするの?」とある。いや、どうするって知らんがな。予想通り、Zoomのダウンロード、インストールから教える羽目になった。早々にGoogleで検索してダウンロードする時点でつまづいた。「広告しかでてこない!」「もういい!」「そんな画面ない!」キレまくる母。スクショを送っても、理解しようとしていないから「ダメ!やめた!!」と返ってくる。私は「順を追っていけば大丈夫。」と返すも、イライラする母。やたら「あれ」とか「これ」と指示代名詞ばかり使うので、頼むから見えているアイコンや画面を言葉で的確に表現して欲しいと伝えるのだが、言語化する努力すら放棄している。この人は国語教師だったはずだが。困ったものだ。

Skypeを繋いで、画面共有することにしたのだが、画面共有をさせるだけでも「そんなものはない!」の一点張りで数十分経過。どうにかこうにかZoomをインストールして登録するところまでこぎつけた。酷すぎる。インストールが済み、Zoomの基本操作を教えることに。あんなに数分前までキレまくっていたのが嘘のように、ケロッとして「意外と簡単ね。」などとほざきやがる。母の日だから許すけれど、娘に平気でキレまくるのはいかがなものか。

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私は母の感情の渦に飲み込まれなかった。以前なら、母の役に立ちたいのに立てない自分を激しく責めていたのに。私は、まるで菩薩のようだった。なぜ、感情的な母に引っ張られなかったのだろうか?と考えを巡らせる。これまで私は、母には大人らしく振舞って欲しかった。だって大人なんだし、私の母親なんだから。でも私は気がついた。

母は私よりもずっとずっと「こども」だった。
私が生まれる前からも、生まれてからも、成長してからも。「こども」のような人だった。対する私は小さなころから「オトナ」だった。こどもの着ぐるみを着た「オトナ」だった。こどものような母を見て育ったから、しっかりしなくちゃと理解して大人びた少女になったというような美談ではない。母はずっと「こども」っぽい人で、私は生まれつき「オトナ」だった。それに気がついたら、母に認められたいとがんばる承認欲求が、シュルシュルと頭上から抜けて消えていった。

「こども」だろうが「オトナ」だろうが人間である。あたり前のことだが、母が母である前に人間であり、私が娘である前に人間だということ。だったら、どんなキャラの人間かの違いだけなのである。もしかしたら母は、母親の役割が窮屈だったのかもしれない。大きくなった娘の前で、母親らしく振舞うこともせず、ただひとりの人間として私と向き合っているのかもしれない。「母親らしく」という言葉だって、ステレオタイプではないか。

感情をぶつけるということは、私に心を開いている証拠である。カッコつけもせず、思ったままの言葉を投げつけるのは、何者かになろうとしてないからだ。そう感じた時、私は母が可愛らしくも思える。
「しょうがないな、Zoomぐらいでイライラしちゃって。大丈夫、深呼吸して、ゆっくりひとつひとつ確認しながら進めていけばいいよ。」

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結局のところ、「こども」だとか「オトナ」という分類は、社会のシステムを動かすためのモノであって、さほど重要ではない。カテゴライズしやすいから使っているだけだ。そんなことよりも、フラットな視点で相手と関わることのほうが、ずっと大事である。私はまたひとつ「オトナ」になった。

もし、あなたが感情をぶつけられるという突発事故に遭遇したら、その感情に愛があるかどうかを見極めて欲しい。もしも、「愛のむきだし」だったら雲の上から相手ではなく、相手の感情だけにフォーカスしてみてほしい。相手のことを好きだったら、きっと「しょうがないな、仕方がないね。」と、菩薩対応できるに違いない。

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