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「なんとなく」を手放す

驚いた。気がついたら5月になっていた。
まだ私は3月ぐらいの気分で過ごしていたのだ。驚いた。
季節がすっかり移り変わっていた。

宝くじに当たるぐらいの確率で2回も陽性反応が出て、
合計20日の自己隔離も体験した。今ではすっかり笑い話。

どこへ出かけるわけでもないし、
相変わらず仕事も時短勤務で、
自分の時間が増えたから、それに比例して困ったことも増えた。
困ったことだと表現するのは、ちょっと違うかもしれない。

私は「わたしの本音」に気がついてしまったのだ。
私はどう生きたくて、なにに幸せを感じて、どうありたいか。
本音に気がつくのは、過去の私を否定するみたいで恐かった。恐怖だった。ラスボスが「現れる現れる」と知っていて恐る恐る歩いていたら
「ああ、やっぱりデタ!現れちゃったよ!」そんな感じである。

そうしたら当然、これまで自分の中でしっくり来てなかったことが
明るみに出てきた。そんな時に飛び込んできたツイート。

”なんとなく好かれるような洋服や髪型選びをしなくなった。
選択肢の変化は、自分を生きる指標になる。“

ああ、まさにコレだ。私の恐れていたラスボスは。
これまでの人生どれだけ「なんとなく」に流されてきたか。
私の目の前の敵はもちろん私自身だけれど、
そろそろ「なんとなく」と戦わなければ、
人生という旅を続けていけなくなったと気がついたのだ。

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人は日に何十回何百回と「なんとなく」の選択をする。
朝起きて「なんとなく」服を選び、コーヒーを「なんとなく」淹れて、
身支度し、買い物へ出かけたら「なんとなく」お得なほうを選ぶ。
そこに「私」はいない。心ここにあらずなのだ。
仕事へ出かける前に見た、先のツイートは頭の中でこだました。
黙々と作業をこなしながらも「なんとなく」がワンワンと鳴り響いた。

なんでもかんでも「なんとなく」だった自分に気がついて
私の人生、お先真っ暗じゃないかとモヤモヤした。
逆転の発想をしてみようじゃないか。
じゃあ、私が「なんとなく」に引っ張られない時って?
それは、いつ・どこで・なにをしている時だろう?

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答えは簡単だった。旅だ。旅をしている時だ。
私が旅する時、「なんとなく」は旅へのワクワクと好奇心で消え去る。
これが観たい!これが食べたい!ここへ行きたい!
一切の妥協ナシ。
特に旅する時の食へのこだわりは異常で、ここのコレを食べる!
その為に必死で知らない土地の地図を広げ、
辿り着くためのルートを検索する。
リスボンでは名物のナタ(エッグタルト)を食べ比べるため、
パティスリーを梯子した。もちろんどこの店のナタも違ってどれも個性的だった。

旅先で目にして虜になったものを自分への土産にする時も同じ。
イスタンブールの道端で出される、ティーグラスに一目惚れした。
来る日も来る日も、迷宮のようなグランバザールを歩き回ったが、
お目当てのティーグラスと受け皿が見つからない。
その辺の道端では、そのグラスと受け皿でしか出てこないというのに。
帰国する前日になってグランバザールのタイル屋さんに聞いてみた。
「あのグラスと受け皿はどこで買えるんですか?」と。
タイル屋のおじさんは物珍しそうな顔をした。
「これが欲しいのかい?」
恐らく、日本に来た観光客が「業務用スーパーはどこですか?」と
道玄坂の真ん中、もしくは円山町で尋ねるようなものだろう。

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「明日の朝、また出直しておいで。用意しておくから。」と笑った。
起きたら支度して空港へ直行するつもりだったが、
どうしても欲しかったから、丁寧に取り置きをお願いした。
私は今でも、ティーグラスとソーサーを使っている。
ガラスは薄いように見えて頑丈で、ぶつけても落としても壊れたためしがない。

「なんとなく」は私の「ケ」だったというオチだ。
無意識に旅している時の私は「ハレ」で、「なんとなく」という感覚もなかった。突然、旅に出られなくなって「ハレ」の日もなくなって、
やっと私は気がついたのだ。

日常を大切にしたいとかほざいていたダサい自分を。
「なんとなく」他人軸に摺り寄せていたダサすぎる自分を。
ああ、ダサいダサすぎる。ため息をつく。

他人に「なんとなく」好かれると思っていたファッションも、髪型も、
巡り巡って私のためになると「なんとなく」思い込んでいた。
「なんとなく」自分が興味ない人も含めて、私を好いてくれたら、
私は心地よいのだろう、生きやすいのだろうと信じていた。

ダサいダサすぎる。
「なんとなく」好かれたいファッションの没個性な私に誰が惹かれるというんだ。自分が好きでもない「なんとなく」他人軸な私を誰が好きになってくれるんだろうか。図々しいにも程があるでしょう。

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自分がいちばん良いと感じるものを選ぶことって、難しくはないはずだ。
私は誰になんと言われようがリスボンいちのナタを食べる!とか、
誰になんと言われようがネオンカラーのNew Meパーカーを着る!だとか。
「自分らしく生きよう」「自分軸でいこう」「ありのまま」etc.
使い古された感のある言葉たち。
これらって結局のところ自分を知らないことには「なんとなく」ループから
脱出するまでに至らない。
スーパーマリオの土管の中をずーっとウロチョロウロチョロしてる感じ。
「なんとなく」と決別するために、私がいまできることはなんだろう。
現実的に旅はまだできない。リアルで友人と会うのも制限がかかっている。

自分に嘘をつくのはやめよう。
自分を蔑ろにするのはやめよう。
自分を雑に扱うのはやめにしよう。
そして「なんとなく」とはサヨナラしよう。
覚悟を決めたらダサい自分にも笑いがこみ上げくる。

明日はいつものスーパーでサバの燻製を買おう。
フライパンでパンを焼いてサバサンドを作るために。
ガラタ橋の釣り人たちを思い出して、私はサバサンドを頬張る。


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