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「くるりのえいが」が崩してくれた壁

 あなたが他人の仕事現場を見学させてもらう時に発する第一声はなんでしょうか?「失礼します」「お世話になってます」「お仕事中すみません」などが常套句でしょうか。見学される側といえば「いらっしゃいませ」「こんにちは」と黙々と自分の業務をこなしながら口に出すかそれなりに失礼にならない社会人たる態度を見せるでしょう。もちろん礼が儀礼ではなく日常の様子を見るべき時、見せるべき時などが礼になる場合の見学もありますが。普段は見られない部分を見ることはこの上なくワクワクするものですし、神経を使う物です。逆の立場ではドキドキするし、気を取られるものです。

 演劇やライブなど舞台上で行われる仕事はその舞台上の出来事は仕事の最終的な帰結点であり仕事全体の中でも極地に位置するものでありながら、準備期間と上演時間及び期間では大幅な人時差異が出てくると思います。期間が長ければ長いほど、上演回数や箇所が多ければ多いほど一回当たりのコストは下がるでしょうが、パフォーマンスを維持するという側面では予備費でも計算できない予測不可能な部分も人間の営みですからあると思います。さらに映画という形態は上映されてからの修正や改善は内容については余程のことが無い限り不可能かと思います。帰結までの緊張感というのは完品を世に送り出し反応を待つのと生身の人間が常に反応を伺うのではどちらが高いのでしょうか。私には想像も及びません。
 そういった意味で映画と音楽媒体というものは発表という一方向のコミュニケーションとそれに対する感想という一方向のレスポンスで成立するとても親和性の高い芸術です。また、時間が進むにつれて完成品と受容者の同時代性が失われながらもレスポンスの積み重ねが可能な点についても見逃せません。レスポンスが積み重なれば積み重なるほどそれ自体が完成品を読み解く手段のひとつにもなります。おおよそ長きにわたって残っているあらゆる芸術作品を我々は完成品に触れずともレスポンスだけで楽しめるものです。例えばビートルズ、例えばゴジラ、例えば源氏物語、例えばゴッホ……例を挙げ解説しようとすればそれこそ人間の芸術を語り尽くすようなことになってしまうでしょう。

 さて、第四の壁という言葉があります。舞台上と観客の間に暗黙の了解として設けられている現実と虚構を隔てる壁です。時折それを意図的に壊す作品もありますが、「くるりのえいが」は客観的なドキュメンタリーという第三者的観点を保ちつつも観客が映画内に参加している感覚を覚えさせてくれる二人称的映画でもあります。それはまさしく映画製作者の意図でもありますが、意図せず(かどうかは恐らくしているでしょうが)崩した壁として「くるりのえいが」を鑑賞した方々に「感覚は道標」や収録曲の「In Your Life」に対する受け取り方があると思うのです。それは音楽制作者と共に楽曲群を作り上げたという発信的感覚を覚えさせてくれているということです。

 「くるりのえいが」はくるりの仕事現場の大多数の方から見れば「裏側」を見せてくれる映画です。方やくるりチームとしてはいつもは見せない完成品を構築していく通常の仕事現場を見せている映画でしょう。作為として完成させる楽曲を「濁らせない」工夫がそこかしこにされています。そのことから見ても公園の石をひっくり返すような「裏側」ではなく店先で蕎麦打ちを見せるような「裏側」であることは留意しなければなりません。その工夫のひとつにくるりや製作陣が多く語っている「撮っている」「撮られている」空気を無くしその結果無かったということがあります。ここで一枚の壁が崩されます。見られている意識がくるりから消されているのです。そのレンズを通した映画を我々が観る時に「くるりがレンズに見られていない」ことを理解するのにさほど時間はかからないでしょう。ただしこれだけでは通常のドキュメンタリーにおいての観測者を消すという常套手段でしょう。もうひとつ、先ほど記述したような発信的感覚を観ている人間が覚える工夫があるのです。

 シンプルに言うとそれは「目線」です。鑑賞中に私もあなたもくるりチームの一員になっていた気がしませんか?その現場に必要な人員になっていた気がしませんでしたか?レンズを通した映像、ではそのレンズは「誰」だったのでしょうか?果たして気にも留められない置き物的視点だったでしょうか?私はくるりの第四のメンバーの視点をレンズを通して表現しているのだと思いました。岸田さん、佐藤さん、森さん及び他チームメンバーにプラスワンした視点、それこそが「くるりのえいが」を二人称的映画にしている最大の仕掛けだと思うのです。
 多数の場面に置いて「くるりならこう見るだろう」という視点で撮影されており、他人の仕事現場の映画でありながらよそ者感、疎外感を全く感じないのです。これは超個人的意見ですがオリジナルメンバーの森さんを改めて迎え入れて作品作りをするという受け皿が映画撮影という業務も加わりもしかしたら少し拡がった「お裾分け」なのかもしれません。

 改めて他所様の仕事現場を見学する時は何と挨拶するか、思い浮かべてください。しかしこの映画に対して発するならば第一声は「おはようございます」「お疲れ様です」と言って見始めるのがいいでしょう。それほどくるりは我々を内側に入れてくれました。楽曲を我々の掌中に置いてくれました。映画と音楽の理想的な出会いがあり、その中に我々の人生も参加していると思わせてくれる素晴らしい映画です。今後も聴いては観て、観ては聴いてを繰り返し誠に勝手ながら制作陣の一員としてレスポンスを発信していくことになるでしょう。岸田さん、佐藤さんが森さんと再び出会った映画でもあり、改めて我々もくるりとその音楽に出会った映画なのです。

                 〈了〉



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