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執(と)らわれ過ぎる見方

まちがった悪い考えとか、悪い見解(評価、意見)のことを、悪見(あっけん)と言います。多くの場合、これまでの知識や経験を元にした解釈から来るものであり、知性的な煩悩とも言えます。

悪見は、五つのグループに分けることができます。

  1. 自分という人間は「常に自分」なのだ、という自分に執らわれた考えのことを言います。いわゆる我見ということです。
    我見は、良い意味で確固たる自己を確立するためには必要な物です。しかし、「自分」に執らわれ過ぎると、我が強すぎると敬遠されることになります。つまらない自我にこだわることで我見が生じます。

  2. 物事を深く観察することなく表面的に見て、両面・両辺があるにも拘らずに一面・一辺だけに執らわれる考え方をします。いわゆる辺見です。
    典型的な例として、死ねば全て無に帰すとする断見と、死んでも何かが恒久的に残り続いていくという常見とがあります。

  3. 因果関係を無視した根本的に誤った考え方をすることがあります。いわゆる邪見です。
    よこしまな見方・考え方であり、例えば正しいことをして益を得るのが良いのに「あの人を騙して金を取り上げよう」という不正で益を得ようとするのです。

  4. 間違った考え方を信じて先入観にしてこだわり、型にはめ込む考え方です。間違った見方(見)を取り入れた考え方(見)なので、見取見(けんしゅけん)と言います。
    先入観で形作った自分の見解を最高だと思い込むのが典型例であり、○○イズムという特定のイデオロギーが該当します。

  5. 特定の戒律や禁止事項にこだわる見方です。誰かが作ったルールなどが最善のものだとこだわりすぎる考え方です。戒律の戒と禁止の禁を用いて、戒禁取見(かいごんじゅけん)と呼びます。
    ルール絶対主義は、かたくなな教条主義となってしまい、例外をも押し殺してしまいます。

悪見に捉われないようにするために大切なことがあります。

まずは、自分という人間は他者との共存生活の中にあるということを忘れてはならないということです。そうすれば、他者のことを考え、そして自分はどうすればよいかを考えるようになります。

もう一つ、正しいものの見方をすべきです。そのためには、①目前だけに執らわれず長い目で見ること、
②部分だけを見るのではなく、全面的・多面的に見ること、
③枝葉末節に走るのではなく根本を見るようにする、
という原則を持つべきです。

私たちは、正しい方法とは何かを知った上で、それに沿った考え方をすべきだということなのです。正しく見て、正しく思い(考え)、正しく行動すべきなのでしょう。

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