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自己紹介

改めて、自己紹介させていただきます。1989年当時の話になります。
一浪して大学は数学科に在籍していました。数学の教師を目指していました。ところが、実際に教育実習を行い、他の仕事をしたいと思うように
なりました。就職活動で出遅れてしまいましたが、コンピュータ関連の
会社から無事に内定をいただきました。

ですが、当時は内定式という名の拘束日があり、内定者を一同に集め
一日を過ごすというイベント的な物が。すると、自分自身は数学科ですが、
周りの学生は文系の人が殆どで。何となくですが、自分がいるべき場所では
無いのではと感じました。

結局、電話でですが、丁寧に内定辞退の連絡をしました。そんな時にクラスの友達が出版社が面白そうな気がする、と言ってきて。確かに自分自身、本を読むのが大好きで、編集の仕事に強い興味を覚えました。ただ、既に7月前でそれから出版社での就職活動は遅過ぎです。

けれど、何とか某予備校で、編集志望で最終面接まで進めました。
8月の暑いさなかです。最終面接で「君はどうも元気が無いね」と言われました。暑くて体調不良だったので、声に力が無かったようです。結局、その
予備校は落ちました。

そして、9月のある日、新聞を読んでいた伯母が「この会社はどう?」と
求人広告を見せてくれました。東証一部上場の大きな出版社の子会社の
求人でした。『この会社でなら編集の仕事を覚えられるに違いない』と
確信しました。

すぐに会社に連絡を入れ、採用試験へ。試験の内容は作文と面接でした。
作文では個人競技のスポーツをやっていた自分が、大学に入ってからバンドでギターを弾くようになり、個人ではなく皆で協力して何か一つのことを成し遂げることの楽しさや素晴らしさという考え方が編集の仕事にもきっと活かせるだろう、といった内容で書きました。

そして、面接でははっきりと編集の仕事を希望しました。ところが面接官は
「うちの会社は出版社じゃないんですよ」と。
編集の仕事はあっても、実際には就職情報誌を制作している会社なのだと
あとで知りました。

それでも、採用試験を終えて、家に帰ってみると、すぐに会社から電話があり「内定です」との連絡が。物凄く嬉しかったです。正確には出版社では無いにしても編集の仕事を覚えられるのだからと、大満足でした。
数学科で勉強していた自分が情報誌の編集制作の仕事をするようになるとは
思ってもみませんでしたが、編集の仕事とはどんなものなのか、強い興味もあり、楽しみでワクワクしたことは今でも忘れられません。

無事にその会社に就職しましたが、最初の配属先は広告の営業部でした。
話が違うではないかと思いました。けれど、とにかく働いてみないことには始まりません。広告の営業のノウハウなど全くわかりませんでしたが、貰った会社のリストで電話を先方に入れ、アポイントメントを取り、媒体の企画の説明をして、何とか広告の出稿を取り付けるのが仕事内容でした。

全く、契約を取れずに過ごしていましたが6月下旬にようやく一社と契約を結べました。ですが、やりたいことは編集制作の仕事です。悩んだ末、俺は
常務に会社を辞めたいのだと直訴しました。理由は正直に編集制作の仕事をしたいからだと告げました。
すると、常務は「わかった。7月から君は編集制作部に異動だ」と。

そして、無事に編集制作部に異動となり、ゆっくりとですが情報誌の編集制作の仕事を身に就け、成長し始めていきました。

就職情報誌の編集制作の仕事で、俺は毎日を楽しく過ごしていました。
休日出勤や、朝は9時出社で毎日23時頃まで残業をしていても何も苦に
感じませんでした。本当に毎日が充実していて。周りからは働き過ぎに感じられたのか編集部長から『お前、たまにはゆっくり休め』とまで言われました。
そのくらいに自分にとって情報誌の編集制作の仕事は楽しくて仕方ありませんでした。そして、時は経過し、三年目の6月頃に夢だった一人暮らしを始めました。実家で伯母や母との暮らしが嫌だった訳では無いのですが、一人暮らしに強い憧れを抱いていたのです。

阿佐ヶ谷の6畳のアパートに引っ越しました。幸いなことにその時期は仕事も繁忙期を過ぎていて。それでも、毎日21時頃迄は仕事でしたが。けれど、夢の一人暮らしも楽しめ、入社して三年目ともなれば仕事もしっかり身についていて、幸せの絶頂にいました。あとは恋人が見つかれば最高だなと。

ところが、引っ越ししたアパートは電車の線路沿いで、夜中もずっと電車が走っていて。電車が通る度に、振動が酷く、目が覚めてしまうようになりました。徐々に眠りの状態が悪くなってしまい、あまり眠れなくなりました。
今、考えると、もっと真剣に住む場所を考えておくべきだったと。でも、後悔先に立たずです。同時期に歯医者で具合の悪い歯の治療を受けていました。すると、前歯を一本丸ごと削られてしまい。嚙み合わせがおかしくなり、どうにも自分を正常に維持することが難しくなってしまいました。

神経の病であることに違いないと思いました。どうにもならなくなり、母に紹介してもらった精神科への通院を始めて。不眠時の薬などを処方されるようになりました。そして、阿佐ヶ谷のアパートも引き払い、実家に帰りました。けれど、一度狂ってしまった神経の病はそう簡単には治ってくれませんでした。

治療に専念したいという思いから会社に休職を願い出たのですが、当時はバブルが弾け、希望退職者を募っている時期でもありました。大好きな編集制作の仕事は覚えたし、会社にも愛着があって。けれど、休職は認められず、体調は最悪のまま。結局、会社を辞めるという選択肢以外にありませんでした。

入社してたったの四年でしたが、大好きな仕事との別れがやって来て。
1994年3月末で退職しました。その後は勿論、身体の治療に専念しました。
歯の治療と不眠症の治療です。前歯はブリッジにしてもらい、嚙み合わせの問題が無くなると、それまでに感じていた身体の異常は徐々に治まってくれるようになりました。けれど、不眠症の方はどうにも簡単に治ってくれませんでした。不眠時の薬を飲むのを止め、何とか眠れるようにと頑張りましたが、三日間一切睡眠できない日が続いて。

結局、不眠時の薬を服用する以外に無いのだと諦めるようになりました。そして、すっかり自分の今後について絶望に近い感情を抱くようになりました。うつ病と診断されたことはありませんが、限りなくうつ病に近い状態だったのだと今は思います。

毎日、何もする気になれず、一週間に一度、精神科の病院に足を運んで薬を処方されるだけの日々を過ごしていました。一年半くらいそんな暮らしが続きました。
そんな時に大阪で新聞記者として働いていた兄が東京に戻って来ることになりました。見兼ねた兄は『英会話学校にでも通ってみたら』とアドバイスをくれて。
毎日、部屋の中に閉じこもってばかりでしたが、上智大学の英会話教室に通うようになりました。ほんの少しですが、また社会との接点ができました。
そして、母は親戚に税理士や公認会計士がいることから「あんたも頑張って税理士をめざしたら」と言ってきました。

全くの畑違いですが、資格の学校に通うようになりました。そして、税理士試験を一度だけ受験しました。けれど、全く歯が立たず。興味のない勉強をいくら繰り返しても頭に入って来ないのだと悟りました。

実家の都合で家族が引っ越すことにもなり、その間に、やっぱり何とか社会に出て働きたい、仕事の内容は何でも構わないと思うようになりました。
1997年の話です。勿論、新聞で求人広告を見ては編集制作関連の仕事ができる会社に山ほどの履歴書を送りました。けれど、全く採用されずじまいで。

ようやく働きたいと思えるようになっても、当時は転職が非常に厳しい時期で。バブルが弾けて不景気の真っ只中でしたから。どうにもならなくなり、伯母に相談しました。すると伯母はシブシブですが知人に俺のことを相談してくれました。

そして、その知人の方の紹介で何とか印刷会社に転職が決まりました。仕事の内容は印刷の営業です。情報誌の編集制作の仕事とは全く違いますが、とにかく働けることの喜びが大きくて。

印刷物の製作の為の見積もりや、得意先の顧客を回るいわゆるルートセールスですが、とにかく毎日働きました。そして、ルートセールスに慣れてきた段階で、自分でも新規の顧客を見つけたいと思うようになり。

新宿西口の高層ビルの中にある会社に飛び込みでの営業を始めました。けれど、全く相手にもしてもらえません。そんな中、昔自分が勤めていた就職情報誌の制作会社に足を運んでみました。懐かしい先輩たちと再会することもできて。そして、その会社から印刷物の製作の契約を貰うことが出来ました。媒体の企画書の製作が最初の仕事でした。新規の顧客であること、そして親会社は一部上場の出版社であることも含め、転職先の印刷会社の先輩たちは一様に喜んでくれました。社長までが「おい、あんた、頑張ってるなぁ。偉いぞ」と直々にお褒めの言葉もいただけて。

丁度、印刷会社に転職してから一年が経過していました。部署の違う先輩から「一年続いたんだから、次は三年だな」と言われて。

けれど、俺自身としてはどうしてももう一度情報誌の編集制作の仕事に戻りたいという思いが日増しに強くなっていました。単なる我儘なのかもしれません。けれど、やりたいことと印刷物の営業があまりにもかけ離れていて。

結論からいくと、会社に辞表を提出しました。就職情報誌の制作会社と契約できたのだから、大量の出版物の印刷を任されることはわかっていました。営業成績は格段に伸びることも保証されています。それでも、どうしても、編集の仕事の魅力が大きくて。社長や上司の方々にそれまでのお礼とお詫びをし、円満に退職しました。

印刷会社を辞め、その後、持病の副鼻腔炎の手術などもあり、1か月ほど
入院しました。副鼻腔炎では済まず「腫瘍」という診断でした。けれど、医師の先生に上手く手術していただき、退院できました。

入院中に考えていた事は新たに薬剤師を目指すことでした。情報誌の編集制作の仕事に戻ることが夢でしたが、どうにも実現が難しかったからです。

退院した3月末に予備校に通って薬学部の再受験を考えました。実際、久しぶりの受験勉強は楽しくて。けれど、一所懸命勉強すればするほどに、どういう訳だか『数学科』でもう一度学び直したくなってしまいました。

本末転倒です。結局、仕事として資格を取るために薬学部の再受験は止めました。その頃にタイミングが良かったのか、新聞の求人広告で出版社を見つけ、面接を受けました。すると、理由はわかりませんが内定をいただきました。不可能だと思っていた出版社に転職できたのです。びっくりしました。
仕事は自社サイトの更新作業でした。1999年のことです。社会から離れていた俺はインターネットの世界などまるでわからずじまい。

けれど、先輩社員に作業を教わり、サイトの更新の仕事を続けました。情報誌の編集制作とは仕事の内容は異なりますが、インターネットの世界を知り、物凄く強い興味を覚えました。仕事は下手くそながらも、周りの支えもあって、何とかこなしていました。

けれど、月日が経過するにしたがって、その会社の問題点に気付くようになって。文字通りの家族経営の同族会社だったのですが、会長とどうにも考え方が合いませんでした。意味も無く毎日のように怒鳴られて。仕事でミスしたのならまだしも、全く関係の無い事で気に入らないと怒鳴ってくる会長でした。

何だかよく判りもせずに転職したことが失敗だったのかもしれません。せっかく、出版社に転職できたのに。そして、インターネットで自社サイトの更新と言う新しい仕事も少しずつ覚え、楽しみも感じていました。それでも、会長に毎日のように意味も無く怒鳴られ続け。それではこっちの精神状態までおかしくなってしまいます。

結局、入社して半年でその出版社を退職しました。はっきりはわかりませんが、ブラック企業だったのかもしれません。

またもや道に迷うことになりました。そんな俺を見兼ねたのか、兄が『脚本の学校にでも通ってみたら』と奨めてきました。興味の湧いた俺は書店で脚本の書き方の紹介の本を購入し、実際に六本木ライターズスクール(現・日本脚本家連盟ライターズスクール)に半年間通いました。そして、講義を受けていくのと同時に、実際に生まれて初めて自分でドラマの脚本を書きました。学校のコンクールがあったのでその作品で応募。結果は200作品中で8位の成績でした。

右も左もわからず書いた生れて初めての脚本が一定程度の評価をいただけたことは当然大きな喜びになってくれました。同時に、ドラマの世界、創作の楽しさを覚えました。もし、この時のコンクールで処女作が全く評価されていなければ、今現在、小説を書いていることも無かったことでしょう。

ただ、たまたまその学校の机に誰かが転職情報誌を置いていきました。読んでみると、一部上場の大きな会社が転職情報誌を制作していて、採用の条件は求人広告の製作経験者となっていました。それならば、俺にも何とかなるかもしれないと思い、履歴書を送り。面接に呼ばれ、求人広告のコピーライターとして採用されました。嬉しかったです。

自分でも一体何をやっているのだろうと、今振り返ってみれば、はちゃめちゃですが。けれど、一つだけはっきりと判ってきたことは、文字を紡いで人に何かを伝えることが自分の一番好きなことなのだとようやく気付きました。子供の頃から本を読むことが大好きでした。それで、情報誌の編集制作の仕事にも異常なまでの魅力を感じていたのだと思います。

けれど、この頃から人間関係に悩まされたり、人間不信にまで陥りました。
同じことの繰り返しで、更に出版社を三社も転々と。自分でもどうにもならない転職ジプシーでした。派遣社員として校正の仕事を続けながら、小説や脚本を書き溜めて。

そんな中、伯母がすい臓がんで余命一年だと医師から告げられました。これまで母と兄と俺の三人は伯母のおかげで生活できていました。伯母の存在が無ければ、とっくの昔に行き倒れていたと思います。父は俺が中学二年生の時に別居しました。伯母の経済的な支えのおかげで大学にも進学できたし、就職もできたのです。

俺は伯母の介護に全精力を注ぎました。けれど、すい臓がんはやはり重たい病気で。そこで、何とか自分の作品を読ませたいと思い、それまでに書き溜めてあった短編小説のいくつかを自費出版で制作しました。2011年のことです。幸いなことに意識だけははっきりしていた伯母は俺の作品を読んでくれました。結局、同年の3月20日に伯母は旅立ってしまいましたが、どうにもめちゃくちゃな人生を歩んできた俺の作品をずっと見守ってくれていた伯母に読んでもらえたことは今でも大きな喜びです。

そして、更に時を経て、アマゾンでわかつきひかる先生の著書である『文章を仕事にするなら、まずはポルノ小説を書きなさい』を見つけました。それまで官能小説をきちんと読んだことも無ければ書いたこともありませんでしたが、処女作をフランス書院のコンクールに送ったら二次選考までは通りました。それまで、何の道しるべも見出せずにいた俺が一定程度の評価を得ることができたのです。

それをきっかけに何とか自分の書いた作品を世に送り出すことできないだろうかと、ネットを検索しまくっていたら、いくつかの出版社が電子書籍のみでの出版でも原稿募集していることを知りました。すぐにいくつかの出版社に原稿を送付。すると、オリオンブックス様から採用の通知をいただけました。それまでは夢のまた夢と思っていましたが、自分の書いた小説が電子書籍として発表されるようになりました。デビューは2018年6月で、今でも小説は書いていて、いるかネットブックス様のお世話になっており、発表した作品は41作品にまでなりました。

自営業で生活には何の苦労もせずに済んでいます。最愛の母は2021年1月に残念ながら亡くなってしまいましたが、俺が小説を書いていて、作品がネットの世界では売られていることを少しは喜んでくれました。
母から言われたのは
「悪いことをやっているんじゃないのなら、まあ、いいよ」
と。
晩年、介護施設で療養していた父にも俺が小説を書いて原稿料を貰えるようになったと告げたら
「凄いな」と、びっくりしていました。

すっかり長くなってしまい、申し訳ないです。最後までお読みくださり本当にありがとうございます。

もっと、早くから電子書籍の出版社に応募していたらと思うこともありますが、俺の経験が作家志望の方の一助になってくれたらと思うところもあります。因みに俺がベストだと思うのは会社に勤めながら小説を書いたり脚本を書いていく道です。俺自身は今年で58歳で、自営業の方で生活は成り立っていて、転職など不可能なのはわかっているので、今は一人きりで小説の執筆に明け暮れていますが、作家志望の若い方には会社に勤務しながら創作活動を続けていくことをお薦めしたいと思います。

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