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言葉の大切さと 気持ちの持ちよう

キャリアコンサルティングで転職相談を受けて、その理由が「上司の理不尽な指導や人格を否定するような酷い叱責を受けて会社を辞めたくなった」という内容を時々されます

最初上司から仕事の手順を教えてもらって、最後に「でも公式通りの仕事はないから、そんなときは自分でよく考えて対応してね」と言われたのでその通りしたのに、「なんで言われた通りできないの?」「報連相もできないの?」と詰られた、て感じです

このような相談の場合、出来事の背景やらクライエントのパーソナリティーやらでコンサルの中身は当然変わってくるのですが、クライエントの中に怒りや他罰的な気持ちが薄い場合は必ず伝えるようにするのが、「認知の方向性を変えれば気持ちも変わる」ということです

そこで重要なのは、「主体を誰にして出来事を観るか」

上司や同僚の心無い言葉や暴言って、言われるとひどく心が傷つくのですが、当事者じゃなければ口調や態度にイヤーな気持ちにはなっても、心を抉られるような傷は負わないと思います
それはなぜなのか

例えば、「上司にひどい言葉で怒鳴りつけられた」と告げられたとします

これは、主語が抜けてしまいます
敢えて主語を加えるとすると「私は、上司にひどい言葉で怒鳴りつけられた」
となります

主語は文章の主体を表す言葉ですが、この言葉を発言している主体も「私」だとすると、文章の主体と発言者が一致しています
すると当たり前ですが、怒鳴られたときの恐怖や悔しさや申し訳無さが感じられますね

ところがこれを、「上司は、私に酷い言葉で怒鳴りつけてきた」と言い換えてみます

単に主語が入れ替わっただけなんですが、内容は同じでも文章の主体と発言者が食い違っていると、なんだか違って聞こえませんか?敢えて言うなら物語を語っているような感じです

このように、主体者を明確にすることで気持ちの負担は軽減するものなのです

上司に怒鳴られた貴方は、心のなかでずっと「怒鳴られた」「恥ずかしい」「申し訳ない」「もう嫌だ」と連鎖反応のように自分を責める言葉を連ねていきます

しかし、最初の「怒鳴られた」を、「怒鳴ってきた」と言い換えるだけで、その後が「怒鳴られるようなことしたっけ?」「なんか乱暴だな」「まぁ反省は必要かな」なんて言葉に繋げられるのではないでしょうか?

嫌な出来事やつらい思いをすると、いつまでも引きずってしまい心が疲弊してしまうような場合、一度試してみてください

ちょっとだけ気持ちが楽になるかもしれませんよ

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