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「不適切にもほどがある!」は、昭和と令和の違いを描いたドラマではない。

この論評に頭を捻った。
何も見えていないし、この見出しをつけた編集者も全くわかっていない。
<アップデートに成功した「おっパン」原田泰造の清々しい笑顔>ってサブタイがついてるけど、「ふてほど」の最終回のタイトルは<アップデートしなきゃダメですか?>だ。
もちろん、わかっていて引っ掛けたのだろうが、どっちを<正解>と決めつけること自体が、「ふてほど」が警鐘を鳴らした危険性だったのだとするならば、まさに危険な行為を地でいっていることになる。

「ふてほど」、初回と最後の2話の計3話だけ見ました。
なので、阿部サダヲ演じる市郎が昭和の価値観から令和に馴染んでいく変化の過程を見ていないのだが。

とにかく、この論評はクソだ。
ドラマの論評ではなく、結果的に現代の価値観への誘導になっている。

「ふてほど」は時代考証が甘いと書いてあった。
それはその通り。でも、それはわざとだと思う。
昭和の時代でもあんなチョメチョメいってるオッサンはいないし、1986年の時点では教室でタバコを吸う先生もいない(その5年くらい前はいた)。
つまり、設定もフィクションなんですよ。
ざっくり「こういう時代だったよね」というものを86年に集約しただけ。
リアルな86年を描いたわけじゃない。
もっと言えば、昭和と令和の違いを描きたかったわけじゃない。

おれが思うに、「ふてほど」が描きたかったのは、「時代が変わっても変わらないもの」だと思う。
最終回で、純子が渚の口についたソースを拭ってあげるシーンは、親子という関係性を知らないまま、ふと親が子にかける愛情というものが表出したシーンで(見かけ上は逆転しているが)、自分が見た中ではこのシーンにいちばん感動した。
これなんかまさに時代が変わっても変わらないものを表現したシーンだったし、人間の本質を見事に表現していたと思う。

そして、ある程度の「緩さ」と変わっていくことへの「寛容」も説いている。
例えば、喫茶店でのスパゲティ。
昔はちゃんと作れてたけど、店主が年老いた現代はあまり美味しくない。
それでもいいよね、そういうものだよね、という寛容をここには感じるし、その隙間には味だけではない価値観が描かれている。

ドラマの中盤を見ていないからアレだけど、市郎と対極の立場を取りながら同じものを描き出したのがキヨシだった。
ちゃんと両面を描き出しながら、同じ着地点に到達するところは見事。

一方で、このライターさんは、描写の正確性にこだわり、ここで描かれたものが真実だと思われてしまうと危惧する。
「不登校」のくだりでも、ここに描かれただけじゃないケースもあるという。
そりゃそーだ。それをテーマにしたドラマじゃないんだから、そこだけを正確に詳細に描くわけにはいかない。
上記の親子のシーンにも、子供に愛情をかけない親だっていると一刀両断するのだろう。
でも、そこを正確に、全ての可能性を描いてもしょうがなくない?
喫茶店のスパゲティも、美味しく作れないなら出すべきじゃない、お客さんはお金を払っているんだから、とか言うんだろう。
でも本当にそれだけでいいのだろうか?

つまり、このライターさんは自分に都合のいいように描いて欲しかったわけだ。
EBPMじゃないけど、現代においては何事にもエビデンスが求められるし、自分の思い込みを正義とすることは許されない。
でも、これはドラマなんですよね。フィクションなんです。
ドキュメンタリーや歴史ドラマなら正確性を求められるけど、「ふてほど」はそんなドラマじゃない。
このライターさんが正確性を求めていること自体が、既にこのドラマの趣旨に反しているし、現代の価値観に囚われているという証明だろう。

このドラマが投げかけた「変わらないもの」に着目してみると、見え方が変わるのでは?と思う。
ロマンティシズムやサブカルの時代は終わったと言うかもしれないが、人間はそんなにドライになって幸せになれるのだろうか?

「おっパン」は全く見ていないので言及しない。

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