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※飼い犬が死んでしまう話注意※


犬の具合がよろしくない。

17歳ということもあり、このところめっきり体力が落ちて足元はおぼつかず、食欲もないようだ。
病院に連れて行き、点滴を受け、家に帰ってきたところで女性に声をかけられた。

「あの、チョコちゃんのお母さん。病院いかがでしたか。」
「あまり状況は良くないですね。」

近所に住むというこの女性は、最近毎日のように家を訪ねてきている。

「私、チョコちゃんのことがかわいそうでかわいそうで。」

この女性は、先月飼っていた愛犬を亡くしたんだそうだ。
愛犬の散歩コースにうちがあり、毎日朝昼晩と、うちの犬と顔を合わせていたそうだ。
格子状のフェンス越しに、いつも犬を見ていたんだそうだ。

うちの犬は庭で飼われているのだが、フェンスは格子状なので丸見えになっている。
フェンスは低く、犬とのコミュニケーションを取ることは容易だ。
フレンドリーで穏やかなうちの犬は、近所の皆さんから愛されていた。

「いつ見てもつながれっぱなしで、散歩にも連れてってもらえてないみたいだし、あのね、老犬も毎日散歩に連れていったら歩けるようになるの、うちの犬はそうだったの!」
「もう散歩はやめてくださいって、先生が。関節も弱ってるし
「毎日マッサージをしてあげて、動かすだけでも全然違うのよ?老犬は世話が大変だけど、飼い主だったら最低限出来ることはしてあげないとダメなの、ね?」」

女性は私の家庭状況を知らないから、自分の常識をゴリゴリと押し付けてくる。

この人は、私が母親の元に毎日顔を出さなければいけないことを知らない。
この人は、私が昨日23:12と、02:30に半狂乱になった母親から電話で呼び出されたことを知らない。
この人は、毎朝5:30に実家に行って朝ご飯の準備とゴミ出しと掃除をすることを知らない。
この人は、毎朝7:00にこのうちに戻って家事をしていることを知らない。
この人は、毎日買い物に連れていけという母親の命令に従っている私の事も知らないし、私の手伝いをしてくれる人がいないことも知らない。

「お仕事おやめになったらどう?働くばかりが人生じゃないの、ねえ、チョコちゃんに寄り添ってあげて!」

この人は、私が介護のためにずいぶん前に仕事をやめたことを知らない。

「ごめんなさい、時間がなくて、忙しいので。もう行かないといけないんです。」

家事を済ませて、朝一で予約してあった病院に母親を連れていき、帰りに買い物に行って実家に送り届けた後、二時間待ちで犬を診てもらって、点滴を受けている最中にまた母親から呼び出されて。

急いで家に帰って来た私は、犬を置いて今すぐに母親の元に行かなければならない。……もう35分も母親を待たせている、早く行かなければまた狂ったように泣き叫ぶ声を聞くはめになってしまう。

「せめてご飯だけあげてもいい?私の手作りなの、うちの犬がいつも食べてたの、安心していいから、ね?」
「ごめんなさい、腎臓が悪いので、先生に言われたご飯しか食べさせたらダメって言われてるので。」

昨日も、今日も、うちの犬はご飯をあまり食べない。
食が細くなっているので、急にたくさん食べさせるのもよろしくないという話だった。消化の良い、腎臓に負担のかからないご飯を少しづつあげてくださいと言われている。もう、消化する体力もあまりないのだそうだ。

あまりがぶがぶと水を飲むようだったら早めに病院に連れてきてくださいと言われている。大量に水を飲むと脱水が進んで危ないという話だった。水を飲む量を計量したところ500mlしか飲んでいなかったので、そこまではひどくないという事らしい。

♪♪♪♪

電話が鳴った。母親からの着信だ。手早く返事をして、今すぐ向かうと返事をする。老いてしまった母親は、脅迫概念に取り憑かれているので、私がすぐ横にいない時間が恐ろしくてたまらないのだ。

「介護もされてるんですってね、大変ね、私、チョコちゃんの世話しましょうか?」
「お気持ちだけ受け取っておきます、ごめんなさい、失礼します。」

私は老犬を置いて、母親の元に向かった。


いよいよ犬の具合が悪くなってしまった。
もう立ち上がることもできない。

家と実家を行き来するときに犬の様子を見ているのだが、見るたびに状況が悪くなっていく。

ご飯も全然食べていないし、食べさせようとしても食べてくれない。
体が粗相で汚れて、見た目にもかわいそうなことになっている。
帰宅しては汚れを拭きとり、出かける前にも汚れを拭きとり。
ケージを二つ用意して、粗相をすぐに洗い流せる環境を作って対応した。

今日は弟が久しぶりに実家に顔を出してくれるというので髪を切りに行くつもりだったのだけど、犬を優先することにする。

タオルをたくさん用意して、全身をマッサージしながら汚れを拭きとる。
犬は少し息を荒くして、時折気持ちよさそうな顔を見せている。

……もう、そろそろかな。
明日の朝は迎えられないかもしれない。

今日、時間があって、よかった。
犬を清めながら、子犬だった時に泥んこになった日の事を思い出した。

「チョコちゃん、お待たせ……あら、こんにちは。」

あの女性が、うちの玄関を抜けて、庭の中に現れた。

犬の横でしゃがんでいた私に、気が付かなかったようだ。
ちょうど、クロガネモチの木の影になっていて見えなかったらしい。

私は普段、朝から夕方まで、この家にはいない。
介護をするために母親の元にいるからだ。
その間、この家は無人だ。

この家は、玄関横に庭があり、まわりはフェンスで囲われている。
扉がないので、基本だれでも、庭に入ることができる。
ただ、完全に敷地内なので、あまり他人が立ち入ることはない。
ガスの検針員などは、玄関の横を抜けて、庭の奥にある機器をのぞくことがある。

女性は、我が家に勝手に入っていたようだ。

女性の手を見ると、大きなボウルが、二つ。
ペットボトルも持っている。

「いつもいらっしゃらないから、お邪魔してお世話させてもらってたんです。チョコちゃんね、私のごはんが大好きなの。あげてもいい?」

大きなボウルの中には、ささみと野菜を煮込んだようなものがたっぷり入っている。

「このお水ね、蒸留水なの!いつもチョコちゃん、がぶがぶ飲んでね、すぐに飲み干しちゃうのよ?」

一リットルのペットボトルから、ボウルに水を注いでいる。

犬の息が、荒くなったまま収まらない。

「昨日立たせてあげたら立ったんだけど、今日も立たせてあげないと……。」

息の荒い犬を、無理やり立たせようとしている。

「あの、もうやめてください。今日は私がいるので、お帰り下さい。」
「じゃあ、ごはんとお水だけ、置いていかせてね?また来ます!」

女性は帰って行ったが、またすぐにやってくるに違いない。

ご飯を食べないはずだ。
女性がいろいろと食べさせていた。
大量に水を飲んでいないと安心していたけれど、実はものすごくたくさん飲んでいたようだ。
体力がないのに、無理やり立たせて疲れさせて、疲労困憊になって、立てなくなったという事か。

いろいろと謎が解けていく。

しかし、謎が解けたところでもう今更どうにもならない。
今更誰かを責め立てたところで、もう、どうにもならないのだ。

私はただ無心に、犬を清め続けた。

汚れのないきれいなケージに犬を移動させた時、弟から電話がかかってきた。母親がパニックになり手が付けられないから来てくれという呼び出しだった。

息の荒い犬を置いていくことはしたくない。

だが、私には、犬を置いてトチ狂った母親の元に行くという選択肢しか残されていない。


三時、私が犬の元に行くと、女性が犬を撫でていた。

「チョコちゃん、頑張って!がんばって!ママがついてるよ!!!」

見ると、犬が苦しそうにしている。

「あの、帰ってください、私もういるんで。」
「チョコちゃんね、お気に入りのお饅頭、一口食べてくれたの、でも、全然元気になってくれなくて!」

舌を出して、苦しそうにしている犬の口から饅頭がひとかけら、落ちた。


犬は、幸せだったのだろうかと、ふと思う。

いちばん弱っていた時期に、飼い主である私が24時間ついていてあげることができなかった。
最後の最後、天に昇る瞬間、飼い主ではない人に抱きかかえられてこの世を去った。
この世を去ったというのに、飼い主である私は涙ひとつ流さず、飼い主でない誰かが号泣した。

私は、犬を飼って幸せだったのだろうかと、自問する。

いたずらっ子だった子犬時代に手を焼いて。
大人しい成犬時代にずいぶん助けられ。
大人しすぎる老犬時代に手をかけてやれず。

今際の際を、近所の犬好きの他人に邪魔されて、涙ひとつ流れない、怒りひとつ沸き上がらない、私。

犬はもういない。

犬はもう、いなくなってしまったのだ。

♪♪♪♪

電話が鳴った。

悲しむ時間を与えてくれない、緊迫した状況が、私を動かす。
感情を出す余裕のない私は、無表情のまま、電話に出る。

怒鳴り散らす声を聞きながら、私は庭の片隅に咲いているパンジーの花を毟った。カラフルな花を、犬の頭の上に置いた。

今すぐに行かなければ、マンションの五階から飛び下りるのだそうだ。
……一刻も早く向かわなければならない。

泣いている女性は微塵も動こうとしない。

「すみません、私行かなきゃいけないんです。」
「あなた、それでも……飼い主?!」

……どうにもならない。

……どうにも、ならないのだ。

私は、何も言わずに、家の中から昔犬を洗った盥を持ってきた。
抱きしめられている犬を無理やり奪い、盥の中に入れた。

「なんでそういうことするの?!」

私は何も言わずに、犬の入った盥を玄関ドアの向こう側に閉じ込めた。

「うちの犬がお世話になりました、もう犬はいなくなったので、もう来ないでください。」

私は返事も聞かずに母親の待つマンションへと急いだ。


夕方6:00を少し過ぎたころ、家に帰ると旦那が玄関先で泣いていた。
あの女性とともに、派手に泣いている。

今から、動物の葬儀場に行くそうだ。

何一つ犬の世話をしなかった旦那は、ペットの死に、涙が止まらないらしい。
元気な頃に一緒に散歩に行った記憶が次から次へと思い浮かんで、涙が止まらないらしい。

盥の中は花びらでいっぱいだった。

庭の花壇の花という花全てを毟って、盥の中に入れたらしい。
私が毟る花は、庭にひとつも存在していなかった。

「チョコちゃん、こんなに旦那さんに愛されて幸せだったと思いますよ、また生まれ変わったら、ぜひ飼ってあげて?」
「また会いたい、僕のもとに、また来て欲しいです、う、うう……。」

……豊かな感情を、思い切り出せる人がいてくれてよかった。
……私は、何一つ感情を出せなくなってしまったから。

……これで女性も満足した事だろう。

……犬は、満足、したのだろうか?

旦那を見送り、私は犬のいた場所を掃除し始めた。

ケージをたたみ、マットをまとめ、不要になったリードや首輪、おもちゃに食器……分別してゴミ袋に入れてゆく。

汚れたタイルの上を水で流したところで、また電話が鳴った。
気持ちが悪いので、今から病院に連れて行けとの命令だ。

……犬の葬儀に同行しなくてよかった。
……同行していたら、母親の命令に従う事ができなくなるところだった。

今頃、犬は煙になって天に昇っている頃だろうか。

私は半月の輝く暗い空に向かって手を合わせ、母親の元へと急いだ。

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