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【読書メモ】生きることと走ること:『走ることについて語るときに僕の語ること』(村上春樹著)

『走ることについて語るときに僕の語ること』の第9章の本題はトライアスロンですが、村上春樹さんはマラソンも織り交ぜて長距離走を走ることについて書かれていらっしゃいます。味わい深い章です。

生きることと苦しさ

著者はこれまでの章で走ることの苦しさや困難といったストイックな面についてはこれまであまり触れてきませんでした。ことさらに根性論で走ることを語ることは避けてきたともいえ、私も同感なので心地よく感じていました。その流れの中で、最終章で苦しさについて語っている箇所は興味深いものがあります。

もし苦痛というものがそこに関与しなかったら、いったい誰がわざわざトライアスロンやらフル・マラソンなんていう、手間と時間のかかるスポーツに挑むだろう? 苦しいからこそ、その苦しさを通過していくことをあえて求めるからこそ、自分が生きているというたしかな実態を、少なくともその一端を、僕らはその過程に見いだすことができるのだ。生きることのクオリティーは、成績や数字や順位といった固定的なものにではなく、行為そのものの中に流動的に内包されているのだという認識に(うまくいけばということだが)たどり着くこともできる。

p.189

苦しさそのものに対してマゾヒスティックに意味を見出すのではなく、それを乗り越えるプロセスに意味を見出すという点は共感できます。だからこそ、過去の自分の記録を超えるという客観的な数値へのこだわりは持つものの、レースに臨むプロセスという行為の連続に対して焦点を当てるのです。プロセスに対して真摯に取り組んだからこそ、その帰結としての自己の過去の記録を超えるという執着心を持てるのではないでしょうか。

価値と効率とむなしさと

本当に価値のあるものごとは往々にして、効率の悪い営為を通してしか獲得できないものなのだ。たとえむなしい行為であったとしても、それは決して愚かしい行為ではないはずだ。

p.189

少し前によく使われたコスパという言葉に加えて、最近ではタイパという言葉が使われるとされています。私は、積極的にこうした言葉を使うつもりはないものの、若い人々がこうした考え方をすることはなんとなく理解できるような気もしています。効率よく成長したい、だから無駄なアクションはしたくない、ということなのかもしれません。

ただ、私自身としてはこうしたことはほとんど気にならない性格です。というか、効率よく生きることが苦手というか、自分が好んで行うことに対しては効率性に対する性向が著しく弱いという側面があります。そうして効率を度外視して心から取り組みたいことは結果的に丹念に取り組むことになり、だからこそ、そこから得られるものがかけがえのないものになるということなのではないでしょうか。

近い視線と長い期間

プロセスに焦点を当てるということは、ランナーの視点は現在地から少しだけ先の場所を見る傾向が増えるでしょう。プロセスを意識することは、今ここに目を向けて力を集中させることを意味すると考えられます。

とにかく目の前にある課題を手に取り、力を尽くしてそれらをひとつひとつこなしていく。一歩一歩のストライドに意識を集中する。しかしそうしながら同時に、なるべく長いレンジでものを考え、なるべく遠くの風景を見るように心がける。なんといっても僕は長距離ランナーなのだ。

p.190

視点は近い距離に置きますが、意識のスコープは長期的なレンジで考えることになるという表現は心地よく共感できます。一見矛盾しているようにも思えますが、距離としては近くを見ながら時間軸は長期を見据えているということなのでしょう。


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