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【橋本環奈が2メートル先に存在した現実は、脳に大きなダメージを及ぼす】 〜舞台『千と千尋の神隠し』〜

彼女がすぐそばにやってきたとき、私は反射的に目を逸らしてしまった。
彼女の職業は大衆から注目を浴びるものであるし、たかだか私の眼差しなど日々接している数多の—―それも目玉が飛び出るくらい高い—―カメラと同じ類、もしくはそれ以下のものであろう。しかしこちら側としてはどうにも落ち着かない。

「エロとか金とか酒とか虚栄とか虚言とか欺瞞とかに染まった汚い目でガン見とか気持ち悪いですよね、ほんとすみませんほんとごめんなさい」

眩い光を放つ宝石のような瞳は私を惹き付け、そして、気持ちいいほど卑屈にさせる。

ねえ、その光はどこで手に入れたの?
俺も欲しいんだけど。

分かっている。そんなのどこにも売っていないこと。橋本環奈の人生でしか手に入れられないこと。毎日電車でご老人に席を譲って、旅行中の外国人に道を教えて、コツコツ徳という徳を積みまくったとしても私の瞳はあそこまで輝くことは出来ない。
家に帰り、橋本環奈が焼き付いたコンタクトレンズを外す。保存液に漬けると、細かいゴミがぷつぷつと浮かんできた。
今日一日でこれだけのものが目に入り込んでいたと思うとぞっとする。そして同時に、なんの汚れもない綺麗な状態で彼女を見ていたら、どれだけの光が身体に入り込んできていたのだろうかと不安にもなる。

眠れない。明るすぎる。
枕元のいつもの位置へ手を伸ばしてメガネを探した。どこへいった。見つからない。手をワイパーのように振って捜索するが、得られるのはマットの硬い感触だけ。これはなんだ。神隠しなのか。素に戻るための快適なアイテムを失った私には試練しか待っていない。

スマートフォンのロックを指紋で解除し、グーグルで橋本環奈と検索する。延々と映し出されるあらゆる橋本環奈を、まるで海の深い場所へと潜っていくようにスクロールしていった。知っているはずの顔が今やもう誰かわからない。ナンカチガウ、ナンカチガウ。
舞台と客席のわずか2メートルの距離は、私と彼女を大きく引き離してしまったのだった。

すれ違う人全員が橋本環奈に見えればいい。そうすれば耐性が付く。慣れる。傷つかなくて済む。いや、やはりそんなことはあってはならない。彼女は唯一無二の絶対なる存在。私が死ぬ間際に思い出すのは家族でも友人でもないのかもしれない。カーテンコールで大喝采を浴びていた、彼女の笑顔なのかもしれない。そしてそれは想像以上に残酷な最期なのかもしれない。
私は充電ケーブルが刺さったスマホを暗闇に投げた。カツンとなにかにぶつかる音がして、私はようやく素に戻った。

人を卑屈にさせること=人を幸せにすることという稀有な経験は、今後一生忘れることはないだろう(もちろん彼女は後者に全力を注いでいるに違いない)。
私にとって彼女は光であり闇だ。自分を形成するその闇は彼女の光をより一層きらめかせる。素敵だ。泣きたいくらい素敵だ。嬉しくもあり悲しくもあり、変わらないでいてほしくもあり変わってほしくもある。
もっと。もっとほしい。だけど私がほしいものは、あなたにはぜったいに出せない。

少しずつ心は濁っていく。
私はそれを受け入れる。
やがて、終点のない電車に乗る。
そして、まだ誰もいない駅で降りる。
そこで私は気付くのだ。
己の目に、あの光と”似た”光が宿っているということに。

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