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お葬式と、従姉妹会と、笑顔の叔父

 仏壇とはやっかいなモノである。
 京都の父方の家で代々継がれている仏壇は、祖母の死後、叔父の家に移った。

 父の兄妹たちは仲が良くおだやか。仏壇引き継ぎ問題も平和的に決まったようだ。 
 だがその家族まではそうはいかない。

 それから数十年の月日が流れた今年4月、風邪をこじらせ呼吸困難になった叔父が入院した。
 84歳。まだ最期の覚悟を決めるには早いのに、自分がいなくなったら仏壇は娘(長女)のえっちゃんに守ってくれと伝えたらしい。
 えっちゃんはよそに嫁入りしている。
そんなこと絶対にいや! うちにも仏壇あるのにムリやわ

 そこで叔父は自分の兄妹を病室に呼び、仏壇の処分を決めたという。長男である私の父は10年前に亡くなっているため、処分の話しは同じ京都に住む妹が呼び出された。東京在住の私には、こういうことはすべて事後処理後に連絡がくる。妹任せで、正直、頭が上がらない。

 妹によると叔父は入院中といえど矍鑠かくしゃくとして、皆を取り仕切っていたらしい。そして「もうそろそろあの世へ行くよ」と声高に語り、笑いをとっていたのだとか。明るくて面倒見のいい叔父は、続けてこう言ったそうだ。

みんなで集まると楽しいやろ。アンタら従姉妹同士が顔を合わせるのは今は誰かの葬式のときしかないわ。この際、従姉妹会いとこかいでもやったら?

 楽しそうな発案に、その場にいたえっちゃんも妹も大賛成。21日には叔父の娘、三女のちぃちゃんが仙台からお見舞いにやってくる。叔父は賑やかなことが大好き。従姉妹会いとこかいの詳細は、21日のお見舞いと一緒に病室で話し合おうと決まった。

 私はこの報告を妹から聞き、入院しても元気な叔父の心配をよそに従姉妹会いとこかいにワクワクした。

 そして4月21日。従姉妹会いとこかいの相談は約束通り執り行われた。満面の笑みを浮かべる叔父の前で。
 ただし、その笑顔は写真である。

 4月21日は叔父の葬儀の日となった。もちろん私も出席し、今は納骨を済ませた後の葬儀同日初七日法要の食事会である。急な訃報に驚いたが、それよりもえっちゃんたち近親者の戸惑いはいかほどか。

 叔父の言っていた「もうそろそろ」が真実になってしまった。仏壇処分もそのひとつ。随分前からエンディングノートを作成していた叔父は葬儀用の写真も自ら選び、近親者を次々病室に呼んで「もう最期やからな」と元気に話しを交わしていたらしい。

 「お父さんのこと、ビックリするやろう。こんなことってあるんやなあ」と、えっちゃんが興奮気味に話す。「でも最期の幕引きまで全部、自分でやらはったわ」と涙ぐんだ。私は葬儀に出ても叔父の死を実感できずにいたが、えっちゃんの涙で初めて感情が追いつき、涙した。

 大人になってから何度も叔父に会っているのに、なぜか子供の頃の思い出ばかりが蘇る。えっちゃんたちと府立植物園に一緒に連れて行ってもらったこと。はしゃぎ廻る私たちを追いかけ、冗談を言いながら写真を撮ってくれた楽しい叔父。
 転んで膝小僧をすりむいて、おんぶしてもらったときの背中のぬくもりと煙草の匂い。えっちゃんに「お父さんのこと、とったらアカン」と怒られて泣き出すと、「今日はみんなのお父さんや」と笑った叔父。その声が背中ごしに振動し、抱きついて離れなかった日の夕焼け空が蘇った。

 大勢の従姉妹たちが今、叔父の写真の前で歓談している。これでいいとえっちゃんは言う。食事してお酒を飲んで従姉妹会いとこかいの相談をして、幼い頃におばあちゃんちで恒例だった新年会に集まったことを話した。どんなに遠くにいる親戚も、1月2日にはおばあちゃんちに集合する。

 家の中はギュウギュウ詰めだが、1年のうちで1番楽しいイベントだった。新年会を賑やかに彩った幼い従姉妹たち12人。今はもう40代、50代になっている。こうやって一同に集まると、皆、あの頃の顔つき、あの頃の表情。皆が喜んで従姉妹会をしようと賑わった。

 えっちゃんも笑っている。

 振り返って叔父の写真を見た。
 楽しそうな、嬉しそうな視線が暖かかった。


サムネ写真はHari MohanさんによるPixabayからの画像です 



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