森田芳光監督・映画版『阿修羅のごとく』の違和感。NHKドラマ版を超えられないワケ。
NHKドラマ版『阿修羅のごとく』は時代に残る傑作だ。向田邦子脚本が和田勉演出で見事に花開き、役者の演技で昇華した。今でも多くの視聴者の心に残る名作である。
『阿修羅のごとく』はNHKドラマ版の向田邦子脚本(あるいは小説版)を原作として、舞台版や映画版でもリメイクされている。
NHKドラマ版が良かっただけに、映画にも期待したのだが……。
森田芳光監督の映画版『阿修羅のごとく』は、日本アカデミー賞で監督賞、脚本賞、助演女優賞を受賞している。
さぞかし素晴らしい出来だと思って観たのだが、まったくの期待外れだった。
この記事では、映画版『阿修羅のごとく』の、何がそこまでダメなのかを真面目に考察してみたい。
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▼はじめに ストーリー概要
<映画版『阿修羅のごとく』ストーリー概略>
70歳になる父親に愛人と息子がいることが発覚した。家を出た四姉妹が事あるごとに顔を合わせ、父親、共に暮らす母親のことを心配する。だが四姉妹はそれぞれ問題を抱えており、自分たちのことでも精一杯の状況だった。
<四姉妹>
長女・綱子(大竹しのぶ) 華道の師匠。未亡人で料亭主人の愛人がいる
次女・巻子(黒木瞳) 夫の浮気を疑う主婦
三女・滝子(深津絵里) 真面目で頑固で男慣れしていない図書館司書
四女・咲子(深田恭子) ボクサーの夫を献身的に支える
母親(八千草薫) やさしく家庭を守ることを一番に考えている
父親(仲代達矢) 寡黙な父親だが、愛人がいる
▼森田芳光映画版『阿修羅のごとく』
▼各シーンにみる違和感の考察
映画版の『阿修羅のごとく』の物語は、妬みや猜疑心、閉塞感といった心情表現を軽めに描いているため、NHKドラマ版に比べてあっけらかんとした印象だ。
そのせいか辛辣で鋭いセリフもただの愚痴に聞こえ、「表は穏やかで思いやりを大切にするが、心の中では猜疑心強く争いや悪口を好む怒りの象徴(=阿修羅)」というテーマの面白みが消えた感じがする。
ここからは具体的なシーンを上げながら考察してみたい。
*著作権の関係上、映画からのカット引用はスケッチして掲載しています。
1)工夫のない長回しのシーン
<三女・滝子がタバコを吸おうと荒ぶるシーン>
四女・咲子(深田恭子)の夫・陣内(ボクサー)が倒れた。咲子とそりが合わない三女・滝子(深津絵里)は、陣内や咲子が「不幸になればいい」と思ったことがあった。それが本当になって動揺し、外に飛び出して荒れる。
NHKドラマ版では、滝子が「不幸になればいい」と思うエピソードが描かれている。咲子の夫・陣内がチャンピオンになり、咲子は毛皮や宝石、スポーツカーを見せびらかして姉妹たちを逆撫でしていたのだ。
だが映画版では、咲子の生活が派手になったり自慢するエピソードはない。滝子は咲子を自分の結婚式にも呼びたがらなかったが、それだけの確執も描かれていない。映画で見せたのは日常的な姉妹ゲンカ程度のセリフのやりとりだけである。2人の確執をエピソードとして描いてこそ映画。どうも説得力に欠けてしまう。
この際そこは目をつぶり、映画のこのシーンだけを考えてみよう。
滝子は咲子に対して妬んだことを悔やみ、激しく動揺する。夫となった勝又は「滝子さんは悪くない」と味方する。滝子は勝俣がありのままの自分を受け入れてくれると気づくシーンだ。
このシーンで見せるべきは、滝子(深津絵里)の動揺であり、滝子の全部を受け入れようとする勝又(中村獅童)の包容力である。当然、セリフと2人の芝居はそのとおりに進んでいく。
しかしカメラや背景はどうだろう。
このシーンは1分30秒以上カット割りがない。いわゆる「長回し」だ。
カメラは始終2人の膝から上を撮っている。いつまでたってもアップにならず、表情さえ読み取れない。
画面の大部分は近所の住宅地の背景だが、2人の感情を何か代弁することもなく「背景=セット」の役割でしかない。カメラは2人を引いた画面で追いかけるだけである。タバコを落として動揺する手元、心配そうに覗き込む夫の顔がアップで強調されることはいっさいない。
つまり1分30秒、私たちは遠くから役者の芝居を見せられるのである。
昨今の日本映画やドラマでは長回しを「役者の芝居をカット割りなく見せる」という点からよく使われているが、私は好ましく思っていない。
セリフを話す役者を追いかけるだけでは退屈だ。
カメラや背景は気持ちの昂ぶりを強調しない。映像として、このシーンで何を見せたいかがまるで不明。
ではもう1点、長回しのシーンを見てみよう。
<勝又が三女・滝子に告白するシーン>
この長回しのシーンはなんと2分30秒もある。
勝又(中村獅童)が滝子(深津絵里)の務める図書館にやってきた帰り、激しい雨の中で愛を告白するシーンだ。
雨の帰り道、1本しかない傘に入る入らないのやりとりの最中、勝又が突然告白。男慣れしていない滝子は戸惑う。
「激しい雨」は2人の心情の隠喩であるが、それ以上の何かは描かれない。だから「雨が降っている公園の一角」という背景でしかない。
カメラは動くものの、2人を追いかけるだけで何も意味を持たない。他に人も映らないため、2人の芝居を見せるだけのシーンなのだ。
その芝居もオーバーアクション気味。深津絵里がやけにオドオドしたり眼鏡をつけたりはずしたりと鼻につく。
映画版『阿修羅のごとく』の特徴は、他にもこのような退屈な長回しシーンが多用されていること。
カメラは引きの画面で役者の芝居(セリフ)を追いかけるだけ。寄りの画面で芝居や表情を強調せず、映像としての心情を表す効果が何もない。
これでは舞台の演出だ。遠くからステージ上の芝居を追いかける見せ方と変わらない。果たして映画である必要があるだろうか?
では反対に、長回しを効果的に使用している映画を紹介しよう。
これは『007スペクター』からの有名な長回し(ロングテイク)である。
4分もの長回しだが、1カットの中に多くのストーリー、登場人物や背景などさまざまな情報が詰め込まれていて飽きない。
カットを割っていないが故のライブ感、緊張感が存分に味わえる。
2)演出意図不在、激突芝居だけ
映画版には、NHKドラマ版と同じ「長女・綱子の家に本妻・豊子が乗り込んでくるシーン」がある。NHKドラマ版と映画版を見比べれば、映画版の演出がいかに凡庸かすぐにわかる。
NHKドラマ版には、演出・和田勉の「何を見せるか」がしっかり設計されている。
愛人・綱子と本妻・豊子の位置関係(愛人は正座。本妻は立った位置関係で優位に見える)や構図の緊張感、音響による効果。役者も演出の指示に従い、キレのある芝居で彩った。
<下駄箱の前で愛人と本妻が言い争うカット>
▼NHKドラマ版 愛人・綱子(加藤治子)と、本妻・豊子(三條美紀)
▼映画版 愛人の長女・綱子(大竹しのぶ)と、本妻・豊子(桃井かおり)
上の2点は、下駄箱前のカットをNHKドラマ版と映画版で比較したもの。
構図からして全然違う。
上のNHKドラマ版は、愛人の綱子(加藤治子)を、本妻の豊子(三條美紀)が見下ろす位置関係。本妻が優位だという立場を視覚的に表現している。
2人は上品さを保ち、静かながらも早口でしゃべるセリフには情念がこもり、女の恐さが表れている。
一方、下の映画版は、愛人の綱子(大竹しのぶ)と本妻の豊子(桃井かおり)がほぼ対等の位置関係。セリフはわめき散らすヒステリックなもの。女の情念というよりは、ムキダシの感情をぶつけ合ってコミカルに見える。
ちなみにNHKドラマ版では、愛人、本妻ともに女の情念が露わになったときの凄みや憐れさを、役者の芝居とカメラや構図などの視覚効果、音楽・音響効果を融合して表現している。決して役者の芝居だけで感じるものではない。これが映像を観るということではないだろうか。
だが映画版は、2人の役者が着物で体当たりの演技をしているという、物語上さほど必要のない情報しか印象に残らないのだ。
<病室の過剰芝居爆裂シーン>
倒れた母親の病室に、四姉妹、父親、三女・巻子の夫が一同にするシーンがある。
NHKドラマ版と映画版、ほぼ同じセリフで展開する。
だが役者の芝居と演出がまったく違うため、雲泥の差を生じている。
ここでは映画版のシーンのみ記す。
病室なのに、役者たちはまるで舞台のように大声で芝居をする。
三女・巻子(黒木瞳)の夫(小林薫)など、声を張り上げ怒鳴りまくる始末だ。
巻子は怒り狂ったように父親を罵る。それは愛人のアパート前で倒れた母親を見たからだ。母親が父親の浮気を黙認しながら許せない気持ちでいたことを知ったからである。だからこそ、父を怒鳴りつける。
ところがそのセリフ、途中から三女の滝子(深津絵里)が言い出した。
この不自然さ、役者に対してセリフ配分を忖度したとしか思えない。黒木瞳がしゃべったから、深津絵里にも半分しゃべらせたのか。
ちなみにNHKドラマ版では、すべて次女・巻子役の八千草薫のセリフである。当然だが。
役者陣は、病室という空間、誰がどんな気持ちで言っているセリフかおかまいなしで、自分の芝居を前に出そうと必死である。
しかも病室で横たわる母親はまだ生きている。
四姉妹、なぜ大袈裟に泣きじゃくるのか。演出意図がまるで掴めない。
セリフは誰に対して言っているかも重要である。必ずしも目の前の相手だけでなく、自分に言い聞かせたり、その場にいない誰かに投げかけるような箇所もある。ただわめき散らすだけの芝居では、そんな機微は見えてこない。(NHKドラマ版ではいしだあゆみの素晴らしい芝居が見られる。:陣内が眠る病室で、滝子(いしだあゆみ)が咲子を脅す宅間に詰め寄るシーン)
3)安易な結末と、テーマの消失
映画版では、四姉妹が病室を出た後、父親(仲代達矢)がベッドの母親(八千草薫)に「フラれて戻ってきたよ」と静かに呟く。酸素マスクをした母親は、目を閉じたまま微笑む。
これで老夫婦の問題は一件落着だろうか。
父親は何の罰も受けず、自責の念にも駆られずに。
NHKドラマ版では、母親が微笑むなんてことはない。酔って病室に来た父親の、言葉にならない苦悩がまざまざと描かれている。この後、父親は大きな後悔と喪失感を背負い込むのだ。
映画版はすべてが表層的で軽薄。まったく人間の内側に迫る内容ではない。
それを狙って作られたようだが、結局、稚拙な仕上がりになったのではないか。
最後、三女・巻子の夫(小林薫)が母親の墓前で「女は、阿修羅だよなあ」と呟く。
阿修羅とは、表面上はおだやかでも心の中では猜疑心や妬み、悪口や争いごとを好む二面性の恐さをもつ神のことだ。
NHKドラマ版では、母親を含む四姉妹ら女全員を「阿修羅」として、心に潜むダークさを喜劇的に描いた。
だが映画版はどうか?
四姉妹ら女が持つ二面性の恐さは描かれていたか? 心情表現は徹底的に排除され、皮肉も嫌味も彼女らの性格として発せられているだけである。
では母親だけを阿修羅としたのか?
病室では父親の告白に酸素マスクの下で笑い、新聞に愛人告発の投書をしたのも母親。だが巻子の夫は、それらの事実を知らない。
いったい誰を指して「女は阿修羅」と言ったのか。
こんな妙な謎を残す必要はない。テーマをぼやかしてどうするのだ。
これらが、森田芳光監督・映画版『阿修羅のごとく』をまれにみるダメ作品だと思う所以である。
どのシーンにも似たような違和感があり、いいシーンがひとつもないという珍しさ。
その大きな原因は、原作解釈の薄っぺらさと、舞台を見せられているような演出、視覚効果を放棄した映像、役者の大袈裟な芝居だと推察している。
残念極まりない。
これがアカデミー賞監督賞、脚本賞、助演女優賞受賞というのか。
日本、終わった。そう思うのは私だけだろうか。
▼良作を見よう。昭和をバカにするな
邦画全盛期は70年代までだろうか。いや、近年でも名作・傑作はたくさんある。映画もドラマもたくさん見れば、面白いか面白くないかなんて自分で判断できるようになる。
そのためには良質な作品を見て、感動を蓄積することだ。何に感動したかを考えることだ。これはヘンだと自分で判断できれば楽しくなる。
私は映画が大好きだし、映画の仕事にも携わってきた。確かにこの業界は問題アリだと思う。でもいいところもたくさんある。学ぶべきことは数多ある。
昭和をバカにしてはいけない。
私はたくさんの煌めきや感動、知識も教養も昭和が抱えていることを知っている。何も昭和礼賛しているのではない。
良いモノをちゃんと見つけようと言っているのだ。
だからそういうものをこれからも紹介したい。
そしてダメなものはダメだと、ちゃんと言う覚悟でいる。
*関係各位様:
画面スケッチして掲載していますが、
問題あれば取り下げしますのでご連絡ください。
※サムネ画像は、パブリックドメインの写真画像を使用しています。
著作者:Reiji Yamashita
公表日:2023年1月24日