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好きなものを好きというときに気をつけていること(あるいはヘイトの取扱に関して)

本日クリスマス、もれなく働いております。昨日のクリスマスイブも祝日ですが働いておりました。最近の大学は祝日は大体授業日に割り当てられてるんですよね。というわけで、世間のクリスマス気分を横目に見つつ、うだうだ授業をやってると、「なんだよ、All I want for Christmas is youじゃねえですよ、ほしいの休日だよべらんめえ」とか、ちょっとだけ愚痴も言いたくなります。今日がっつり働いている多くの人が、どこかで「まったくよー」とこぼすのは、それはまあしゃーないと思うんですが、一つ、ずっと気になってたことが、この感触と通じるものがあるなと思って、今noteを書いてます。

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好きなものを好きと表明するとき、特にそれがSNS上である場合、僕はできるだけシンプルにその「好き」という気持ちだけを全面に押し出すようにしています。余計な論評じみたコメントも極力控えて。というのは、余計なことを書きすぎてコンテクストが増えてしまうが嫌だからなんですね。中でも、自分の中で絶対にやってはダメときつく戒めていることがあって、それは「何かを好きといったり、何かを良いといったりするとき、当て馬のように別の何かを批判したり当て擦ったり悪口をセットにする行為」です。これ、僕はけっこう前からずっと気をつけてることなんですが、意外と周りで見るんですよね。例えば

1.「最近のゴテゴテしたCGみたいな写真と違って、この写真はシンプルで素敵」2.「60年代のロックは、最近の薄っぺらいJ-popと違って、独自の視点がありますよね」3.「村上春樹みたいにキレイな女の子が勝手に家に来てセックスさせてくれるような小説と違って、イアン・マキューアンの恋愛小説は男女の微細な感情が美しく描かれている」

的なやつです。こういう「当て馬へのヘイト」をテコにして、好きなものを称賛する行為って、なんか居心地悪く感じるんです。これ、仮に僕が言われたとしたら、どちら側で言われてても「巻き込まないでほしいなあ」って思うんです。つまり、愛される側になっても当て馬側になっても、「巻き込まないでほしい」って感じるんです。何に巻き込まれるのか。「あなた自身のヘイトに」なんです。

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ある対象への愛情自体は、非常に大事な感情だと思いますし、それの表明はいわば世界をポジティブな方向へと動かす原動力の一つだと思うんです。「世界はそれを愛と呼ぶんだぜ」と歌ってるバンドがいました、そうです、世界はそれを愛と呼ぶんです。

でもその時、ヘイトを同時に撒き散らしてしまうと、その表現は結局そのヘイトへの暗黙の同意を求めるための「口実」みたいに見えて来ます。愛を語るその口は、実は本当は、「あれが嫌いなんだ」という隠されたもう一つの本音に対する賛同を求める行為にすり替わる気がするんです。だから、愛される側になったとしても、当て馬にされる側になったとしても、「その個人的なヘイトに巻き込まないでほしいなあ」って感じちゃうんですよね。せっかくの愛の表現だというのに。

というか、こういうときって、大体本来の「好き!」の表現よりも、一緒に並べたヘイトの表現のほうが強くて込み入ってるんですよね。本音がそっちにあるってのがどうしても見えてしまう。

居心地の悪さを感じるもう一つの理由は、愛とか好意は基本、協調とか共感の上に成立するもんだと思うんですね。一方、憎悪は本来は拒絶の行為です。愛情の表裏一体であるわけですから、強い執着が強い反作用として拒絶を求めるわけですが、そうした拒絶と反発の表象である憎悪を、他者と共有したいという相反する欲望に対する居心地の悪さを感じます。憎悪が愛情の裏返しで、本当は強い執着であったとしても、それを関係ない他人も受け入れてくれると当然のように思い込んじゃう態度に、居心地悪さを感じるわけです。「いやまあ、それは素敵だと思うんだけど・・・」って感じで尻込みしちゃう。素直に賛同できなくなる。

しかもそれが「愛」を語る口の中に毒針のように隠されている。憎悪を出したいならば、それは愛や好意と分けて表現すべきだと感じるんです。悪意や憎悪は、それ自体は人間として当然の感情なんですから。まぜこぜにすると、すごく居心地が悪い。

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そんなことを思ったのは、昨日あるツイートが回ってきたからなんですよね。詳細は忘れちゃったんですが、クリスマスを前にして、深刻な内容のアニメが公開されたのはすごい!というようなツイートだった気がするんですが、その好意の表現が「今日みたいな幸福が押し付けられる日」っていうような感じだったんです。世の中の浮かれたクリスマス気分に対して「やれやれ」と思うのは僕もある程度わかるんですが、それでも残念やなと思ったんです。読む前からその人の「幸福」に対する強いヘイトを受け入れることを求められているわけですから。その人のヘイトも加味して、その作品を前にしなきゃいけない。

それは「読み手」として、一番避けたい状況なんです。トルストイが言ったように(ドストエフスキーだったかも)、愛はだいたい似たようなものであるけど、憎悪や不幸はあまりにもコンテクストが巨大にすぎる。愛はみんな簡単に忘れるけど、ヘイトを無視することはとても難しいんです。そして一度巻き込まれると、こっちの持っているコンテクストまでが変容してしまう。

だからこそ、僕は何かを好きだというときは、基本無条件に「好き」という感情だけを言明するんですよね。だってシンプルじゃないですか。

最近友人に、「noteの文章は長いのに、人の写真へはだいたい「すごい!」しか言わんよな」って言われたことがあったんですが、それにはこういう背景があるんですよ、という感じで、オンライン上での塩対応をご勘弁ください。

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