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祈りや願いとしての風景写真(あるいは「パーソナルランドスケープ」と言うテーマ)

2年ほど前から「パーソナルランドスケープ」というテーマで写真を撮りためています。英語にしているのは、その感覚を伝える適切な単語が日本語で思い浮かばなかったからで、日本語に無理矢理するならば「人間の存在を感じる風景」とでも言えばいいでしょうか。痕跡といってもいいかもしれませんし、「そこに人がいて欲しい風景」とも言えますし、「いつか人がいたかもしれない風景」という感触も包含します。この感触を説明できないので、英語に逃げているわけです。

こんなことを考え続けているのは、同い年で最前線で活躍している写真家の濱田さんがいるからで、昨日もこういう文章を書かれています。

濱田さんの文章にはいつも勇気づけられることがあって、僕自身はほとんど人は撮らないけれど、写真の中に込められている「ほんとう」の感覚は、被写体が人だろうと風景だろうとあまり変わらないと思っているわけです。上の記事の冒頭の部分は、長らく僕が写真に対して抱いていた感触そのものです。引用させてもらいますね。

写真は真実だけを写すことはできない、常々そう思っています。写真は自分にとって「世界がこうあってほしい」という祈りに似ています。現実のすべてや真実だけを写そうとはしていないのです。なぜなら人にはそれぞれの地獄があるし、一度抱いた悲しい気持ちは簡単に消えることはありません。それをあえて写真で描くことは役目ではないと思っています。そもそもカメラはすべての事象を捉えることが不可能です。だから「こうだといいな」という切実な気持ちをシャッターに込めて撮っているのです。(上記記事より引用。強調は僕です)

写真は祈りであり願いであるという感覚、それを濱田さんは人物に投げかけることで、あの濱田さんらしい人物写真の距離感を生み出されている。だからこそ、僕はいつも濱田さんの写真は、「物語」として読むことができます。その距離に込められた祈りと願いを「読む」ものとして。

でも風景でそれは可能なのだろうか。風景って、祈りと願いが反映されづらい被写体なんです。というのは、人間の外にある風景は、僕ら人間とは切り離されて存在していると僕は思っているからです。もっというと、世界が存在しているのは、人間の心の内側だけです。人間の心の外には、世界は存在していないと僕は思うんです。

世界の側、風景として存在している事物の全ては、それ単体として「意味」から解放されたものとして、ただ「be」として存在しています。思わないし、信じないし、願わないし、考えない。それはそれとして永遠にあり、いつか永遠に失われる。その自立した存在性は、人間以外の動物もまた同じなんでしょう。かつてBBCのネイチャー番組で、オオカミが子どものカリブーを捕食するシーンを見たことがあります。必死に逃げるカリブーを、徐々にオオカミが追い詰める。そしてついにその子どもに追いついた時、カリブーはもう暴れもせずにその場でただ食べられるままに座っている。必死に抵抗するわけでもなんでもなく、ただ食べられる。そのシーンが僕の中に強く焼き付いています。ただ自然の中で、食べる行為と食べられる行為とが、完全な円環として完結している。人間だけがそこから外れている。認知という能力で世界を解釈する人間だけが、そこに悲しみや諦めを見出すけれど、彼らには悲しみも諦めもない。ただ食べて、ただ、食べられる。行為と存在だけが厳然と機能している。それが多分世界。僕らの知らない世界。

そんな「僕らの外の世界」に、祈りや願いを込めることは可能なんだろうか。それこそが、「パーソナルランドスケープ」の発端でした。

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人の気配を察することができる風景写真。例え全くそこに人が写っていなくても、痕跡を感じられる写真。それは構図でもいいし、色でもいいし、なんならガッツリ人が写っていてもいい。本来世界から切り離されている僕ら人間の気配を見出せるような、そんな写真を2年ほど前から僕の個人的な写真撮影の方向性の一つとして追っていました。その一つの結実が、本日、形になっていました。兵庫県香美町の観光PRの写真です。

左上のカニの写真は、人が完全に写っているんですが、それ以外には明示的な人の存在はありません。でも、この写真は「人が世界を見る時の目線」を意識して写真を撮りました。特に右上の写真は気に入っています。

説明しちゃうと興醒めかもしれませんが、実はこの時、元々は星の光跡を繋げるために別の方向を向いてコンポジット撮影をしていました。50枚ほど撮った時、自分が撮っている方向から90度左側に、太い飛行機雲のような一線の白い雲が、月に近づいて動いているのが見えました。一瞬迷ったあと、コンポジットを終了して、カメラをそちら側に向けます。結構な勢いで雲が動いていて、おそらく1分ほどもすれば、雲は消え去りそうな感触。急いでシャッターを切ったのがこれでした。

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多分、人がここを歩いていたら、ふと見上げた時にこの雲の動きに感動するだろうと思ったんです。風景写真的には、多分それほど「映えない」けれども、この消え去りつつある雲の動きは、もしこの時ここにいたら、記憶に残る一瞬になるに違いない。そこにいない「旅人」の目線を、その時に感じました。人が「いたかもしれない痕跡」を写真に込めることができたんです。

この写真、実はこんな気持ちで撮ったことなどは一切伝えていないですし、またポスター作成に際して、制作会社に渡した写真は、これを選んで欲しいという指定などは一歳ない、訳2000枚ほどの「アタリデータ」でした。でも、先方から5枚の「選定写真」が帰ってきた時、この5枚が選ばれたのが本当に嬉しかったし、特に右上の写真が入っていたのは、何かこの写真が担当の方に伝わるものがあったのかもしれないと、嬉しくなった瞬間でした。

そういうわけで、これから僕は、もちろんバチバチの絶景写真も撮るんだけど、こういう「パーソナルランドスケープ」に共感してくださる企業や自治体の方がいらっしゃったら、ぜひ一緒に仕事したいなと思うわけです。少しずつこういうのも、仕事の中に入れ込んでいきたいと思っています。

(今回の記事の写真は、全て、兵庫県香美町の観光PRとして撮影したものです。以下、その時に撮った写真のお気に入りを載せておきます。コロナ禍がまだまだ収まらない今は難しいですが、もし気楽に旅行ができるような時期が戻ってきたら、ぜひ行ってみてください。本当に素敵な町です)

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