安倍昭恵・山谷えり子靖国神社公開シンポ開催の朝に思うこと

 本日14時から靖国神社崇敬奉賛会主催、産経新聞社後援の第24回公開シンポジウム「生きるということ一志を未来へ」第一部基調講演(安倍昭恵)、第二部座談会(安倍昭恵・山谷えり子)のコーディネーターを務める。
 同公開シンポジウムのコーディネーター役は第1回から24年間努め、安倍元総理や、彬子女王殿下、千玄室、渡辺昇一、曽野綾子、津川雅彦、中西輝政、藤岡弘、義家弘介など、錚々たる方々とお話しする機会に恵まれた。

●「安部ブレーン5人組」と「若手議員の会」
 安倍元総理とは私が30代の頃に出会い、中川昭一議員と安倍元総理中心の月例の勉強会が永田町のホテルで開催され、伊藤哲夫氏や西岡力氏ら5人のメンバーと一緒に参加し、読売新聞が「安倍ブレーン5人組」と大々的に報じたが、私は取材拒否を貫いた。
 「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」が結成され、第1回勉強会に文部省初中局担当官房審議官、同教科書課長と共に私も招かれ、教科書検定基準に「近隣諸国条項」が盛り込まれた経緯とその問題点、並びに教科書検定制度の問題点について、とりわけ教科書調査官制度の問題点について問題提起を行った。
 同会編『歴史教科書への疑問』(展展社)には、10回の勉強会の記録と同会を代表した28名の若手議員の主張が掲載されており、必読書である。中曽根政権下の臨時教育審議会総会並びに第一部会でも詳細に報告し、拙著『教科書検定』(中公新書)に詳述した。
 高校の教科書検定で、中国華北への「侵略」を「進出」に文部省が書き換えさせたという、文部省記者クラブにおける日本テレビの記者の事実無根の誤った報告がマスコミに一斉に報じられたために「宮沢官房長官談話」が出されて、「アジアの近隣諸国との間の近現代史の歴史的事象の扱いに国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がされていること」という「近隣諸国条項」が教科書検定基準に追加され、中韓両国による「外圧検定」がその後続くことになってしまったのである。

●朝日新聞との訴訟騒動
 当時、この事実を渡部昇一氏が「番犬虚に吠える」と題した月刊誌の巻頭論文で告発し、私も月刊誌『諸君!』の巻頭論文で繰り返しこの問題について論じ、教科書問題について朝日新聞を批判したところ、朝日新聞社の社会部長から直接抗議電話があり、裁判に訴えるから「すぐに朝日新聞社本社に来い!」と実に高飛車な無礼千万な一方的通告があった。
 「そちらの用事なら、そちらが来るべきでしょう」と反論したが、通じないので妥協策として「それでは新宿駅駅ビルでお会いしましょう」と提案したが、全く応じる気配がないので、「そこまでおしゃるのなら、私の方から本社に出向きましょう」と言って、朝日新聞社に向かった。
 知人にそのことを報告したところ、一人で本社に乗り込んだら「飛んで火に入る夏の虫」で危険だから同行すると言われたが丁重にお断りして単独で本社に乗り込んだ。会議室に案内され、社会部の担当記者や幹部に取り囲まれ、「裁判に訴えるが、挙証責任があなたにあることは御存知ですよね」といきなり脅してきた。これからあなたの話を裁判のために録音にとるので
覚悟しろという高飛車な姿勢で録音を取り始めた。
 そういう状況になることを予想していた私は「私にも覚悟があるので、録音を取ります」と言って録音を取り始めると、態度が急変して驚いた。一向に動じる気配のない私に今度は低姿勢に一転したので驚いたが、詳しくは、拙著『天皇と戦後教育』(ヒューマン・ドキュメント社)を参照されたい。
 もし最高裁まで訴訟が続いたら、裁判費用がかさむので、住んでいたマンションを売却せざるを得なくなるかもしれないが、構わないかと妻に相談したところ、「勿論です。一緒に戦いましょう」と即断してくれ嬉しかった。
朝日新聞とは2回訴訟騒動に巻き込まれたが、毅然と対応し跳ねのけてきた。「戦友」である妻と共に人生を歩めることに心から感謝している。
 
●「経済の物差し」から「幸福の物差し」を取り戻す
 安倍元総理には私が中心になって推進していた「親学推進議員連盟」の会長に就任していただいた関係で何度もお会いしたが、議員会館で開催した勉強会で、ある中学校の授業中何人もの生徒が立ち歩き、教室を出入りする「学級崩壊」の映像をお見せしたところ、「これは休憩時間の映像ですか」と質問され、「いや、授業中です」と説明したところ、大変驚かれた。
 また、同勉強会で埼玉県の保育園長が「国会議員の皆さん、『待機児童』なんていません。『待機親』がいるだけです」と訴えて大きな波紋を呼んだ。子供は保育所に預けてほしいと願って待機しているのではなく、親が働くために子供を保育所に預けたいと待機しているのだ、という訳である。
 首相官邸で開催される内閣府の「男女共同参画会議」の有識者議員を4期8年務めたが、菅官房長官を含む全大臣の前で、一度だけ安倍政権の経済優先政策を厳しく批判したことがある。
 第一次安倍政権下において、山谷えり子政務官がリードした「あったかハッピープロジェクト」という政務官会議の中間とりまとめで、「経済の物差しから幸福の物差し」を取り戻すことを明記したにもかかわらず、第二次安倍政権は経済優先政策になっている点を指摘したところ、当時の男女共同参画担当大臣と有識者議員の一人であった林横浜市長が賛意を表明されて驚いた。
 待機児童ゼロ作戦は「エンゼル(天使))プラン」と名付けられたが、「子供の最善の利益」の視点から見れば、保育園長たちは「デビル(悪魔)プラン」だという。保育士による子供虐待の増加など保育現場の荒廃に拍車がかかり、小学校教師の全国的不足、質の低下は目を覆うばかりの惨状である。「経済の物差しから幸福の物差し」を取り戻す以外に日本の危機を乗り越える道はない。

●「美しい国」を目指した安倍餅総理の「寂然不動」の志の継承
 安倍元総理は「アジアの子供たちに学校をつくる議員の会」の会長として、アジア各国に小学校の校舎19校を立てる活動をされ、タイの贈呈式に参列された折には、タイの高校生たちが「昴(すばる)」「上を向いて歩こう」を歌ってくれた。
 現地の方が日本兵との友情と鎮魂に対して敬意を表し、朝の5時と夕方の5時に鐘をついてくれるという。安倍会長も鐘をつき慰霊が終わった後、像に乗られ、「シンゾーがゾウに乗ってるゾウ」と少年のような笑顔でおっしゃったという。
 安倍元総理は「美しい国・日本」を目指したが、2年前に靖国神社の遊就館で「安倍元首相を偲んで」と題して追悼展示が行われた際に、みたままつりに奉納揮毫された「寂然不動」という書が展示されていた。「覚悟を持ち、忍耐強く、何事にも動じない」安倍元首相の志をしっかり受け継いでいきたい。
 大下英治『安倍晋三・昭恵35年の春夏秋冬』(飛鳥新社)には、「安倍は政治家として、首相として制約があり、会える人も行ける場も限られてくるから、昭恵はなるべく安倍が会えない人に会い、行かれないような所を実際にに自分の足で回った」と書かれており、反原発派やLGBT当事者など、安倍の政策に反対する人たちと積極的に対話する機会を作られた。
 そこではどのような会話が交わされたのであろうか。これまでの不毛な対立や分断を乗り越えるために、私たちにできることは一体何なのか、についても聞いてみたい。山谷議員は私と同じ73歳なので、人生100年の春夏秋冬で言えば「晩秋」を迎え、混迷を深める政界に活を入れていただくようエールを送りたい。

 


 
 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?