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現代人に足りないのは、生死を意識することかもしれない

5月15日(水)
やっと咳から解放されたけども、花粉症はまだ治らない。

どうも、神門です。

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2023年に山菜を知ってから、もうすっかり山菜の虜になった。

2024年の今年は、4月の土日はほとんど山菜とりに出かけていたため、花粉症が悪化した。そのせいで風邪もひいた。

5月ももう半ばである。山菜の季節は過ぎてしまった。悲しい。


さて、山菜の王様といえばギョウジャニンニク(別名アイヌネギ)である。

名前の通り、北海道の山菜といえばこれが挙げられる。
ただ、この山菜は王様と言われるように、人間にとってはかなり過酷な場所に生息している。大体が水源が近い崖や山の斜面などだ。だから、dead or アイヌネギのような感じになる。ワンチャン、滑落死だ。

普通なら、そんなことまでするなら道の駅とかで買った方が良くない?となるだろう。数年前の僕もそのように思っていた。

ところが、である。

一度このスリルを味わった後にアイヌネギを食べてみてほしい。とんでもなく美味いのだ。半端なく美味い。多分、死との狭間を彷徨ったからこそ、余計美味く感じるのだと思う。

加えて、自分の行動1つで死ぬかもしれない、という状況にいたことも味覚を刺激したのだとも考えられる。なぜなら、生きるために五感をフルに使う必要があるからだ。


多分、傾斜40度くらい


アイヌネギを採取するには、崖をよじ登り、命綱を頼りに重心を移動させながら崖に這いつくばる必要がある。この時、右足の親指付け根あたりに体重をかけないと滑落してしまうなとか、左手であの植物の枝にしがみつきつつ早く移動しないと滑落してしまうな、とか考えながら行動しないと本当に命を落とすことに繋がってしまう。

つまり、脳みそと身体をフルに使うことが求められる。そして、これを一瞬で行わなければいけない。こんな体験をすることは、現代においてほとんどない。だが、これこそが重要なのではないかと思うのだ。


人類は「死」を日常からだんだんと遠ざけてきた。

資本主義社会においては効率化が至上命題だ。だから、人類が狩りや採集活動をする必要はなくなった。農業も生産者と消費者に分かれたことにより、魚は刺身のまま自然界に存在していると思う消費者まで出現する有様になった。貨幣が何でも解決するようになった。

葬式もそうだ。かつては家で看取るケースがあったが、今ではほとんどが病院で死ぬことになる。また、出産も病院で行われる。生死という重要なことは、すべて家から消えてしまった。

そんな現代だからこそ、積極的に「死」を意識するイベントを作っていく必要があるのではないだろうか。そして、日常的に生死を意識しながら生きていく。

死を想うことによって死の恐怖を乗り越えていく生は、いわば輝ける生である。

西部邁「死生論」(p.83)


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