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ガウディとサグラダ・ファミリア展

没後100年。

ガウディの未完の代表作
「サグラダ・ファミリア」

ジョシュア・レノルズやフランス・ハルスといった画家の作品を鑑賞することが好きだから、絵画と一体感を呈するバロック建築には興味あったけど、ガウディさんのサグラダ・ファミリアはゴシック建築(なんそれ?)らしい。
ゴシック建築はバロックと違って、絵画が一緒に使われていないっぽい。とにかく塔ばっかりで、建物に高さを出してるっぽい。
全体が塔と彫刻だらけの建築だから、展示されてた写真とか模型とかで見てみても、どこが何なのかよくわからん。
展開図なんて、まるでわからん。

おれがわかったのは「降誕の正面」は聖堂の側面の壁の一部であって、教会の正面入口じゃないということ。

「ねえ君、すごくいい話があるんだ。 明日その話をしようね」がガウディさんの最後の言葉らしい。
生きてるうちに名が売れたのに、石に蹴躓いて路面電車に轢かれて、路上で瀕死の状態でタクシー3台に助けを求めて、いずれのドライバーにも自分が何者か気付かれず乗車希望をシカトされて、逝った。
展示品でデスマスクがあったけど、顔面に興味ないからおれは一瞥もしてない。

今回初めて知ったガウディという人には、自身の作品に於ける拘りに確固としたルーツ(根っこ・起源)が感じられて、おれはガウディさんを大好きになれた。
自分の趣向に拘って、それをどこまでも掘るところが、おれと似てるって思った。

でも、そのガウディを好きになったおれの目から、改めてサグラダ・ファミリアという建築物をみると、いろんなことに拘り過ぎてて、一つの作品としてまとまりがないように感じる。
いくつもあるうちの一つの聖堂なのに、そこに作者の拘りを詰め込み過ぎて、人間一人の生涯どころか、もっと多くの人・時間・金をかけて、それでも未完である状態に疑問を抱く。
時代をこえて受け継がれてきた、携わる人の夢や憧れの体系のように思う。

思うに、ガウディさんは、人間が容易に関知出来ない地球(おそらく星々とか宇宙にまでは目を向けてなかったと思う。あくまで自分の目で見える範疇の世界)という自然から、たとえばそこらへんに生えてる一本の木から、その生命や曲面を、建築であらわそうとして、それをまず目に見える細分化した曲線であらわして(逆さ吊りの糸に重石をびっしりと張り巡らせて重力という自然に倣った)、次にその曲線が描かれるに至る経緯を直線であらわして(均等な比率の角度差で直線を並べることで、それらが一つの曲線を描いているように見える)、その行為を反芻して、自身の描く理想"自然を観察して発見した形"を、自分以外の人とも確実に共有する術を確立しようとして、そのチャレンジは成功した。
自然から学ぶことに対する姿勢、そこから得た学びを自身の直感に留めず具体化するスキル、そういう凄さにおれは圧倒された。
ガウディは、人間同士の意思疎通における障害を、見事に取っ払った。伝言ゲームを確実にクリアする術を、建築に用いた。

その上でいま、おれはサグラダ・ファミリアを"ガウディの芸術作品"とは言い難い。
これまでその作品に携わってきた人が、いま携わる人が、ガウディやサグラダ・ファミリアやそれらを取り巻く歴史・建築史に憧れを抱いて、意志を継いで、いま、没後100年。
没後だからね。ちなみに、ガウディは当該建築物筆頭の二代目で、現在九代目(名前知らん)。
もはや、一人の芸術家・職人の作品ではない。

その作品って、その歴史って、誰が終結させるんだろう。これには終わりがあるのか?

結論:おれは生涯スペインに行けない。
理由:サグラダ・ファミリアを見たくないから。
理由の理由:実物をこの目でみて、自分が何かを感じる瞬間までに、もっと、おれ自身がそれについて限界まで深掘りしたいから。
客観的見解:お前(おれ)はこれ以上踏み入るのやめとけ。

2024.03.28追記
2026年に完成予定とのこと。
 1. IT技術が一気に進歩して建築に活用した
 2. 観光収入が増えて資金が潤沢になった
上記二点が主だった完成要因。

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