大野の民泊宿ねこばやし

福井県で「空き家を活用した大野の民泊宿 ねこばやし」を運営しています。「とほネットワー…

大野の民泊宿ねこばやし

福井県で「空き家を活用した大野の民泊宿 ねこばやし」を運営しています。「とほネットワーク 旅人宿の会」参加宿です。ファイナンシャル・プランナーの視点で、民泊・空き家の活用・地方移住・二拠点生活・副業(複業)について書いていきます。

最近の記事

「とほ宿」への長い道 その10

仕事のほうは冴えない日々サラリーマンとしての筆者のことを再び書く。前回はこちら。 新卒で国際電話会社に入り、大阪に転勤し、2001年に再び東京に戻ってきたわけだが、パッとしない日々が続いた。 もともとは伊藤忠商事とトヨタ自動車の合弁会社「国際デジタル通信」に入社したのだが、インターネットが普及し、国際電話市場そのものが大幅に縮小してしまった。 競合であるKDD(国際電信電話)はDDI(第二電電)と合併し、ITJ(日本国際通信)は日本テレコムと合併した。そして筆者が勤めていた

    • 「とほ宿」への長い道 その9

      浦和レッズの応援にのめり込む2001年6月に関西から東京に異動になり、埼玉県の浦和という町に部屋を借りた。最初のころは前回書いた通り信州にはよく行ったし、東北や上越にも山登りやスキーしに行っていたが、次第に週末はサッカーの応援のためにスタジアムに足を運ぶようになった。 1993年にJリーグが開幕し、1998年には初めて日本がワールドカップに出場、2000年にはシドニー五輪で中田英寿らを擁し決勝トーナメントまで駒を進めた。2002年には日韓ワールドカップの開催も決まっていて、世

      • 「とほ宿」への長い道 その8

        長野県には100回以上行った1989年7月、大学のワンダーフォーゲル部の夏合宿でJR大糸線の信濃常盤という駅に(今でもはっきりと覚えている)降り立ち、北アルプスを縦走して上高地まで歩いた。以来長野県には多い時には年に5~7回、通算で100回以上は行った。最近では昨年「とほネットワーク」の本州ブロック会議で野辺山高原の宿「こっつあんち」に泊まった。 長野県は日本を代表する山岳地帯である北・中央・南アルプス、昔ばなしで富士山と高さ比べをしたという八ヶ岳、美ヶ原や霧ヶ峰、戸隠などの

        • 「とほ宿」への長い道 その7

          宿主の新入社員時代北海道大学を落ちた筆者が、ワンダーフォーゲル部で戸隠の山小屋に入り浸り、北海道を自転車旅して、当初はライダーハウスだったのが「とほ宿」を泊まり歩くようになったことを書いてきたが、少し時間を戻して、社会人になりたての頃の事を書いていきたい。 1992年、バブル景気は既に去りつつあった(当時は「失われた30年」が来るなんて夢にも思っていなかった)頃に就活した。前年とは比べ物にならないくらい就職戦線が厳しいという情報が飛び交っていたが、とはいってもGWに山スキーで

        「とほ宿」への長い道 その10

          「とほ宿」への長い道 その6

          1999年正月の年越し、まずはニセコ「旅物語」へ1998年の夏、小樽・船見坂を登り切った場所にあったとほ宿「ぽんぽん船」にすっかり魅了され、そこで年越しをしようと決めた。 しかし大晦日までの間はニセコでスキーをやろうと思い、他の宿でも評判を聞いていた「ニセコ旅物語」に宿をとった。いつもはフェリーだが冬はキツいし休みも短いので飛行機だ。大学受験の時以来で千歳空港に降り立ち、雪の札幌市内を散策しジンギスカンを食べ、JRでニセコへ。年末のせいか1両編成なのにやたら混んでいた。 ニセ

          「とほ宿」への長い道 その6

          「とほ宿」への長い道 その5

          「とほ宿」の前身?ユースホステルいわゆる普通の「ゲストハウス」と「とほ宿」の違いは、宿主と宿泊者、宿泊者同士の交流がある(ほぼ確実に)ことだろう。ゲストハウスの中でも旅人同士で交流しているところはあるが少数派だし、そのような宿は予約サイトを見ても簡単には見つからない。 このような「交流の宿」はむかしから存在している。「ユースホステル」という世界的組織だ。 大学のクラブの先輩で63になる人がいるが、高校生の頃ユースホステルに泊まりに行って大学生の人たちと交流したという。「旅の

          「とほ宿」への長い道 その5

          「とほ宿」への長い道 その4

          1996年9月、初めてのとほ宿「ニセコ遊牧民」北海道を自転車で旅して、安価な宿「ライダーハウス」に泊まり、ライダー達と酒を飲みながら北海道の情報を語り合う中で「とほ宿」という言葉が多く出てきた。1泊500円程度であった「ライダーハウス」に比べると激安というほどではないが、それでも1990年代当時は1泊2食付きで3,000円台の宿が多かった。せいぜい1週間程度なので大したことはない。 そして、寝袋持参のライダーハウスと違いフトンで寝れるし、食事が豪勢なところが多いとのこと。「ラ

          「とほ宿」への長い道 その4

          「とほ宿」への長い道 その3

          1991年夏、北海道へ自転車旅関西学院大学体育会ワンダーフォーゲル部で、山登りと信州戸隠の山小屋に入り浸る日々が続いた。 春に新人錬成合宿、夏は日本アルプスを9日間程度かけて縦走し、11月の下旬には立山・雷鳥平で雪上訓練、年末に雪山を縦走。3月にもう一度縦走し、その後一年の集大成となる春合宿を10日程度かけて行うという流れだ。 部の公式な合宿だけでなく、部員が企画する「パート・ワンデリング」という有志での山行も行った。 ただ「ワンダーフォーゲル部」というのは、これをやらなけ

          「とほ宿」への長い道 その3

          「とほ宿」への長い道 その2

          (※この一連の投稿は、「空き家を活用した大野の民泊宿 ねこばやし」宿主が旅宿を開業し、「とほネットワーク旅人宿の会」に入会するまでの紆余曲折を書き記したものであって、決して「とほネットワーク」への入会のハードルが高いというわけではありません。ご了承ください。) 大学でワンダーフォーゲル部に入部(前回の投稿) 入学試験当日に大宴会をした北海道大学に落ち、滑り止めに受けていた西宮市の関西学院大学に入学。 しかし、入居した学生アパートは連日一気飲み大会をするという無茶苦茶なところ

          「とほ宿」への長い道 その2

          「とほ宿」への長い道 その1

          「空き家を活用した大野の民泊宿 ねこばやし」を営んでいる 2022年12月に開業、この記事を書いている時点で開業1年4か月。「民泊」といえば大体は「儲かる」が枕詞につく記事や本が多いが、特に儲かってもいなければ赤字でもない。というか、この仕事だけで食ってけるとは思っていないし、そもそも7割くらいは道楽でやっている。 宿のお客さんは、当初は宴会需要が多いのではないかと思っていた。 というのは、福井という土地は公共交通機関がかなりプアなので、車で飲食店に行き帰りは代行で帰ってく

          「とほ宿」への長い道 その1