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世界のへりにてくらしのてざわりを想う

ここ最近、ドルに対する円が乱高下しています。僕たちはこの現象をただ見ているだけしかできません。スケールが大きすぎるため乱高下を止めることはできないです。個人ごとや家庭ごとの対策はあり得ますが、僕たちの力によってこの現象そのものを止めたり、反対方向にもって行ったりということは決してできません。現象に対して直接は、見るか、見ないか、だけです。

1ヶ月前の今日、1ドル151円でした。2024年5月4日の今日、152円です。1円しか変わっていませんが、一時は160円まで行き、財務省が為替介入で8.5兆円規模のドル売り円買いをして、1ヶ月前に比べて1円の変化です。

ドルに対する円がどうなるのか、未来はわかりませんが、なんとなく危なっかしい感じがするその感覚は、まちがっていないでしょう。では、その先にあるのはなんなのか。僕たちに直接どのように影響するのか、すこし考えてみました。




戦争がない ということは
それは ほんのちょっとしたことだった
たとえば 夜になると 電灯のスイッチを
ひねる ということだった
たとえば 寝るときには ねまきに着かえて
眠るということだった
生きるということは 生きて暮らすということは
そんなことだったのだ
戦争には敗けた しかし
戦争のないことは すばらしかった

『灯をともす言葉』 花森安治 河出文庫

花森安治の戦争後に感じたくらしとはスイッチをひねることだったり、ねまきに着がえたりすることでした。

蛇口のハンドルをひねれば水が出たり、コンロのつまみをひねると火が点いたり、スーパーマーケットで品定めしたり、買い物かごにポンと商品を乗っけることだったり、ひと息ついてから紅茶やコーヒーを一杯飲むことだったり・・どこに僕たちがくらしを感じているのかは、人それぞれでしょうが、それぞれにくらしのてざわり感のようなものがあるでしょう。

そのくらしのてざわり感が危ぶまれるかもしれないのが、その先だと僕は思いました。

なにげない日常、家族と挨拶したり、一緒に手をあわせて「いただきます」と言ったり、学校や会社へ「行ってきます」と言って出かけたり、見送ったり、近所の人と話したり、週末には友人と会ったり、一人で読書をしたり、趣味に没頭したり。


僕は今のなんでもない、ごくあたり前のようなくらしのてざわり感を想いながらこんな本を読んでいます。

読んでいて気分は良くなりませんが、予想しうる未来への対策は立てやすくなります。円安なんて来ないという人もいるでしょう。インフレなんて関係ないと思う人もいるでしょう。僕は心配性です。先んじて不安を感じやすいタイプです。なので、もし心配していたことが起こっても大したことはないかもしれません。考えすぎなのかもしれません。でも、僕は学んでおきたい。

今日はこれからピクニックに行きます。新緑の美しい季節です。妻と娘と一緒にお休みの日を過ごす予定です。このなにげない日常がつづきますようにと、くらしのてざわり感を今後も得られますようにと、想いを込めて、今日の学びを進めたいと思います。

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