斉昭・慎太郎・純一郎


より

上記文抜粋
・・・・・・・・・・・・・
『日本を開国させた男、松平忠固』の反響

 先月出版した『日本を開国させた男、松平忠固 ―近代日本の礎を築いた老中』(作品社)の反響が徐々に出てきました。手前味噌で恐縮ですが、いくつか紹介させていただきます。
 ネットでは、まずジャーナリストの柳原三佳さんがJB Pressでの連載記事の中で「井伊直弼ではなかった!開国を断行した人物」と題して紹介して下さいました。

https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/61325

 柳原さんは、『開成をつくった男、佐野鼎』(講談社)の著者です。いまの開成高校の創立者が、加賀藩士で、長崎海軍伝習所の伝習生、さらに万延元年の遣米使節の団員としてアメリカで人気者になった佐野鼎です。柳原さんは佐野鼎のご子孫に当ります。『開成をつくった男、佐野鼎』は小説ですが、海軍伝習所時代の友人だったという設定で、赤松小三郎まで登場させてくださっています。

 気鋭の政治学者で、昨年『『政権交代が必要なのは、総理が嫌いだからじゃない  ―私たちが人口減少、経済成熟、気候変動に対応するために』(現代書館)を出版された田中信一郎さん。「WEB論座」の「「保革」「左右」を超えた枠組みでの野党再編」を論じる政治コラムでも、本書を取り上げてくださっています。以下のサイトです。

 https://webronza.asahi.com/politics/articles/2020071300005.html

 日本の保守とリベラルの対立の始原は、江戸時代の末期の徳川斉昭(好戦主義・排外主義・大日本主義)と松平忠固(リベラルな国際協調の小日本主義)の対立にまでさかのぼるという壮大なストーリーのコラムです。私も、本の中では、徳川斉昭と松平忠固の闘いは現在でも続いているのだと論じています。
 
 日本経済新聞の8月6日の夕刊文化欄の「目利きが選ぶ3冊」では、文芸評論家の縄田一男氏が、『日本を開国させた男、松平忠固』を星5つで紹介してくれました。日経の読者は分かるかと思いますが、「目利き選ぶ3冊」で5つ星はめったにつかないので、ありがたいことです。
 拙著はノンフィクションですが、文芸評論家の縄田氏が高い評価をして下さったのもありがたことでした。すべて史実でも、史実そのものが小説よりも波乱万丈だったということ?

 週刊『ダイヤモンド』(8月22日号)では、元外務省の佐藤優氏が「知を磨く読書」の欄で紹介してくださっています。外務省で日露平和条約調印のために奮闘してきた佐藤優氏。周囲から何を言われようが、攘夷派から憎まれようが、日米友好を推進し条約調印を強行した松平忠固の姿勢に、共感するものがあったのかも知れません。「反対派を押し切り条約調印を強行した松平忠固の合理主義の基礎には民衆に対する信頼があった」と結んでくださっています。ありがとうございます。

・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・
抜粋終わり

久しぶりに、図書館で借りて読んでます。

今のところ気になったのが「なぜに徳川斉昭が、異常なまでにカリスマ性を持てたのか」

てこと。

奴は、小泉純一郎・石原慎太郎とそっくりである。

口先だけで、たいして中身が無い。

悪い意味での星野仙一とも似ている。まだ星野さんのが中身が有った方だ。

はっきり言って、「無能でもないけど、そこまで有能でなく、魅力的だけど、カリスマ性や国家の柱石などではない」って人。

私が中国史に嵌っているので、その辺辛辣だろうなのけど。

諸葛孔明を評した言葉で
「そこいらの人となんだ代り映えしなく、この陣中の方々ような偉い人たちには見えなかった。ただあんな人は二度と現れないでしょ。」
って話があるが、本物は「カリスマ的」ではない・・て私は勝手に思っている。

カリスマ性が強いと、「突っ込み」ができず過ちを是正できず失敗や悪を止められなくなる。

本物は、突っ込める。立派でも「そりゃないよ!」周囲の凡人で
も出来る。

それができないエライ人なのだから、半端者です。

ただ、しいて言えば「宗教指導者」で、「瞑想の奥の奥」「祈祷法」とか指導する人は、「精神の狂気と正気のはざま」を導いていくので、「強権・絶対」的なところがなければ、危なくて修行できません。

それ以外でも「技能を教える」ってなると、上から目線的なところも不可欠になります。むろんそれだけでは弟子が自分で考える・・てしなくなるので、そういう「一面」も必要・てことですが。

それ以外の場合は、対等の人間関係って絶対に大事になります。

日本ってそういう文化が脆弱なのです。仏教は強くても儒教や道家思想が弱いってのも大きいのでしょうね。
儒教って「上に絶対に従え」に見えて「上がアホなら無視しろ。親でもないに、無理に従うな。たとえ天皇・皇帝だろうと」てあるし、「天皇・皇帝が暴君になれば、諫めよ。それでもダメなら追放するか殺せ」だからね。

論語でも、伝習録でも「講学」と言って、事例研究や議論を不可欠のものとしているしね。

仏教で「議論」は、あるけど、出家の一部しか言及されてないし・・まあ在家は信心と信仰で出家に学ぶ・・てのがメインだからね・・。そんなのもあって、「議論・対等の関係で会話」とか弱いです。

ここからは私の妄想だけど、「天皇」てのは確実に「対等の人間関係」のに反する「異物」なのですよ。

そればかりか、神の存在も自己の存在も否定した。神もなく自己もなく、世界すらない思想、それが「空の思想」である。ここを、キリスト教のように神の存在を認めたら、他のすべてのものも実在することになる。そして、そこから神を別格に扱うには、そこにキリスト教のように実在の階層をつけることになる。仏教はある時期からそれを拒否し、否定した。

「天皇」という「特別の存在」を認めたら、それが階層・レジーウムを発生させるのだからね。

それで「上か下か」が絶対になり、それが「対等の人間」って「自然な真理」から、永遠に離れることになるのでね。

まあ

徳川斉昭・小泉純一郎・石原慎太郎・・・そんなものがカリスマを持ってしまう構造・心理的習性など解明できないと、このまま日本人は「家畜人」なのです。

天皇の無い 蒼い空を取り戻す

慈悲と憐みの富む社会になりますように。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?