末寺の末事 66
暇で退屈を持て余す状態と、嫌で嫌で堪らない状態の往き還りを好転させるには、嫌なことを好きにする為に時間を費やすしかない。至極あたりまえだ。
『寺に生まれた』ことが嫌なのだから、先ずはこれを解体してみよう。生まれたことについては、既に生まれてしまったのだから、生まれなかったことにはできないし、では、寺の何が嫌なのか?と考えると、いくつも理由は思い付くが、大体が柵に基づく人間関係に過ぎない。
それも大半は、自分の思い込みと妄想による概念だし、実体は存在しない。実感があるような気がする病だ。
…と、そこまで考えて、ここまで聞いてきたことと結び付いて、僕がこれまでしようとしてきたことや、これからしようと思っていることに、一筋の道が通じた。
「今あるひとつひとつに、感謝して始末をつけてゆく」だ。
これが僕の前向きな『生き方』。不平不満の根元には不自由不足があるのだから。
to be continued
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