たいじん

【非僧非俗の空想坊主】 空想家、宗教家、自由業、世捨人、逃げ組、下等遊民、厨煮病、奇人…

たいじん

【非僧非俗の空想坊主】 空想家、宗教家、自由業、世捨人、逃げ組、下等遊民、厨煮病、奇人、変人、元クライマー、自転車愛好家、掃除好き、ミニマリスト、シンプリスト、チーパー、A(C)、負けず嫌いの平和主義、孤独を好む寂しん坊、破戒僧、乞食僧、愛煙家、酒呑み、 …的なヒト科のなにか

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  • 続々 しあわせます。

    私なりの『しあわせ』について、更に綴ってみました。 【幸福論】 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B8%E7%A6%8F%E8%AB%96

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    私なりの『しあわせ』について、重ねて綴ってみました。 【幸福論】 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B8%E7%A6%8F%E8%AB%96

  • しあわせます。

    私なりの『しあわせ』について、綴ってみました。 【幸福論】 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B8%E7%A6%8F%E8%AB%96

  • うまくいかない

    人生が『うまくいかない』ことについて、自分なりの気づきや思うところを纏めてみました。

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いきづらさらぼ

人生の自由研究として『生きづらさ』をテーマに、日々想うところを散文的に綴っていくだけの、雑記のような書き物やなんやかんやにしてみようと思い、 それなりに書き溜まったなら、それとなく整理して分類するつもりなので、結果的に、いつか誰かの『生きづらさ』が、少しでもフッと楽になる為に、適当な読み物やなんやかんやなんかに、なってしまえば本望オーライ…、 と、いうのは詭弁で、要するに、自分用の思考整理と覚え書き的な意味の方が多分にあって、自己満足の萌えカスの掃き溜めやなんやかんやに、

    • 末寺の末事 137

       教化活動とは、信仰の活性化を図る各種の団体活動で、具体的には仏事・法要への積極的運営参加とか、門信徒としての嗜み慎みについて研修したり、有りがちだけど親睦を深めて連携を強化したり、まあ色々やってきた。形だけは…。  これは基本的に本山始動の末寺・門徒囲い込みプログラムでもある。と言うと思い切り批判されるはずだが、確かにこのような教化活動を通じて、個々の信仰が深まり、有り難い信心の行者を幾人も輩出してきた経緯には敬意を払わねばならない。  が、しかし、これもまた集団主義化

      • 末寺の末事 136

         何かに追われる毎日を追いかけている。隙をみて思考する。思い付いたアイディアは走っている間に脳から溢れていくので、残ったものを採用しようと思う。  とにかく婦人会だ。何かアクションを起こすにしても、どこか的を絞らないと、手の着けどころに悩んでいるうちに、時間だけが過ぎてゆき、そうしている間にも僅かに残る頭の中身にカビが生えてしまう。  たぶん、田舎の末寺特有の事象だと思うのだが、婦人会は活発だ。というか、活発というのは少し表現が間違っているかもしれないが、死んでいないとい

        • 末寺の末事 135

           御託を並べ過ぎた。迷いがなくなったら淡々と生きれば良い。また迷ったら思い出せることを思い出せるだけ思い出せば良い。先に進もう。  優先順位をどうしたものか?さっそく悩んでいる。  檀家制度の解体、法務・法要などソフト面の改革。大きく2つ、基本的には同時進行なのだろうが、どこから着手するべきか。  雑多な仕事の手間や締め切りに翻弄されつつ、思い付いたことからなんて、やり散らかしたら、始末に終えなくなりそうな気がする。  思考が散らかり気味だ。要するに考えが纏まらない。そ

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        いきづらさらぼ

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          末寺の末事 134

           欲しいもの、やりたいこと、手に入らなくても良い、できなくても良い。困らないから悩まない。手に入れたり、できたりしたら、ラッキーごっつぁん有り難い。でも、きっと困るから悩むだろう。  「◯◯せずには死ねない」「死んだら後悔する」などと聞くが、せんでも死ねるよ。そして後悔はどうだろう?死んでまでするだろうか?するとしたら、何かを手に入れたり、何らかを成し遂げても、するのではなかろうか?  過去なんて経験したものなら誰でも悔やめるし、特別なことではない。できなかったことに後悔

          末寺の末事 134

          末寺の末事 133

           これは大きな気付きだ。けど嫌なことがなくなるワケじゃない。辛いな、しんどいな、もうダメだと思うことは山ほどある。ただ煩悶する必要がなくなった。喜んで楽しめば良いだけだった。  上手くいかない。上手くいかないことの方が多い。だって他人が嫌がるからこそ僕の出番が回ってくるワケで、そんなに嫌なことが、頭も要領も悪い僕に、上手くできるワケがないのだから安心だ。ハナから期待はされてない。というか引き受けた段階で、六割は期待に応えている。あとは好きなようにやれば良い。  問題は、逆

          末寺の末事 133

          末寺の末事 132

           嫌だなー、やりたくないなー、って頭を抱えるようなことって、それがもし、スラスラ解決したとしたら、超サイコー!ってなる。自分の力でスイスイと片付けられたら、素晴らしい!ってなる。  つまりは、今の僕にとって、やりたくない嫌なことこそ、やりたい好きなことなのだ。  自分でやりたいことを準備して苦労したり、いもしない自分とは何なのか探して悩んだり、そんなことしなくても、幸いなことに僕の目の前には、問題がドンドン自動的に山積みされてゆく。他人が勝手にお前はこうだと決めつけてくれる

          末寺の末事 132

          末寺の末事 131

           人を動かす。人の考えを変える。これほどに難しいことはない。これこそ難中の難だ。そうして大概は無駄な足掻きだ。  でも方法がないワケではない。だから悩むのだけど、頭と要領が悪すぎて煩悶してしまう。そうして、目の前にやりたくないこと、他人に良いように使われるようなことが、積み上げられていって空しくなる。  しかし、もう随分とドン底まで掘り下げて、そろそろ地に足がつき始めたのか、閃きのようなものがあった。  やりたくないことをやらなくてはならない。やりたいことができない。そ

          末寺の末事 131

          末寺の末事 130

           信仰のパーソナライズ化、具体策を模索している間にも、雑多な仕事が飛び込んできて、容赦なく貴重な自分の時間は削られていく。このままでは、首も手も回らなくなってしまう。  寺の関係、地域の関係、人によってはPTA等その他の関係、無論だが仕事関係もそう。世間には色々な役職があって、誰かがそれを担ってくれることで、何となく動いている関係性がある。  お人好し過ぎて、頼まれると断れない人間と思われているのかもしれない。でも、そんな良いもんじゃない。こういう生き方しか選択肢がない育

          末寺の末事 130

          末寺の末事 129

           ついダメなとこばかりに目が向いてしまう。 八方塞がりで何もできることはないのだろうか。確かに残酷だけど末寺に未来はなさそうだ。盤上をどう眺めてみても詰んでいる。ここから起死回生を考えることに無理がある。  だったらゲームをやめよう。もう勝たなくていい。問題はどう詰むかなのだ。詰むのは末寺であって、個々の宗教や信仰ではないのだから。形が変容するってそういうことだと思う。  お寺はやがて機能しなくなる。正確には末端の取り継ぎ寺院、末寺の必要性が失くなる。  そんなの嫌だ!と

          末寺の末事 129

          末寺の末事 128

           前言撤回、とまで言いませんが…。  集団の力による教化伝導で個人の信仰心や宗教感に影響を及ぼすことは、大いにあると言えましょう。  しかしそれでも、あくまで宗教や信仰は個人的なものです。個人が信仰した結果的に、全体に影響を及ぼすことがあっても、逆では意味が成立しない。  繰り返しにになってクドいですが、その結果衰退するしかなくなるので、重要なことです。  価値がなくても意味はありますが、意味がなくては価値はあり得ないからです。  鈍化制度となった檀家制度を脱却し、真の意

          末寺の末事 128

          末寺の末事 127

           当たり前過ぎて書くのも憚られますが、宗教は個人的なものです。個々の問題に対峙して、それが結果的に全体へ影響を及ぼすパターンがあったとしても、逆は違う。  檀家制度や家父長制といった仕組みは、信仰とは何ら無関係な人間の都合です。上手く使いこなせば上手く機能して好循環をもたらすでしょう、また、悪用されるケースも出てくるでしょう。何せ人間の都合ですから偏りは必然、不備不具合あって然り、無論古くもなっていくことでしょう。  正直、全体的なタイミングは図りかねます。宗教や信仰が、

          末寺の末事 127

          不孝の手紙

          「孝」の字形は、老人の「老」の下に「子」を配したもので、子が老いた親を支えて孝養を尽くすことを表している。  親を大切にし、言いつけをよく守り、子としての道を尽くすこと、親の追善供養や喪に服すことも意味する。   中国儒教において「孝悌忠信」の四つの徳目は、真心を尽くし、誠意をもって、父母や兄など、年長者に敬意を表し、従順に仕えること、兄弟や長幼の間の情誼がこまやかであること等を説く道徳的概念として重視された。  中国には「不孝有三、無後為大」という言葉があり、親の意向に

          不孝の手紙

          末寺の末事 126

           つまり、門徒とは名ばかりの檀家制度です。  歴史的背景や文化的影響も鑑みて、過去にこの「家」を軸にしたシステムが上手く機能して運用されてきたことは事実ですが、それがまた一方では、僧俗ともに意識的な鈍化に繋がった原因でもあるのではないか、とも思ったりもします。  「家」というのは、現代における「家庭・家族」ではなく、「家父長制」のことです。  時代は容赦なく変わりました。今の日本では「家」は機能していません。なのに仕組みだけはそのまま続けるって無理があります。  盛り

          末寺の末事 126

          末寺の末事 125

           時代が変わっても人間は変わらない。って、本当にそうでしょうか?見方にもよると思うけど、時代が変わって人間も変わってるから、変わってないような気になってるだけじゃないでしょうか?  日本の多くの寺院や宗教団体が、その信者に支えられ護持されて運営しているわけですが、浄土真宗に於いては、その信者を信心の行者、同門の信心の宗徒、門(信)徒「もんと」と位置付け、建前的にではあるけれど、理論上は僧俗の垣根が最も低い宗教団体なんだと思います。  が、これはあくまで捉え方で、実質的に現代

          末寺の末事 125

          末寺の末事 124

           宗教やその信仰心に基づく生き方には、本来後ろめたさなどない。はず、きっと、たぶん、知らんけど。本当は後ろめたさしかないのかもしらん。そんなことどっちでもよくなるのかもしらん。  まあ何れにせよ、僕は信仰のうえで夢を語らねばならない立場、末寺の住職。たとえ滅び行く過疎集落の何の取り柄もないちっぽけな末端寺院であったとしても、何もしないで廃寺を待つしかありません、とは門徒さんの前で口が裂けても言えません。だいたい口が裂けたら痛くて喋れません。それに門徒さんの前で坊さんの口が裂け

          末寺の末事 124