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よくきたね、ありがとう

休みの日に軽くパソコン仕事をするとなるとBGMは欠かせない。

それは音楽に限らず、野球のラジオだったり、落語だったり、過去に視聴したことのあるドラマや映画だったりもする。

初見の映画やドラマなんかは絶対にだめ。作業に集中できない。桂枝雀の落語もだめ。どうしても動きが観たくなる。

その点、野球はいい。ラジオだと尚更ちょうどいい。ただし、それも佐々岡監督がやめるまではどうしようもない。辛いよ、まったく。

なので、休日仕事のBGMは、やはり音楽がマストだと常々思う。

今日は夕方からフジロック2021の配信で、サニーデイサービスのライブがあることを予め知っていたので、それに合わせてパソコンの前に座るも、あぁダメだ。あまりもライブが格好良すぎてマルチタスク失敗。途中、どうしてもトイレで離れた他はがっつし最初から最後まで、苗場のそれに目を奪われて終いだった。

曽我部さんの姿を、誰かがツイッターで「21世紀少年のオッチョ」と例えていたけれど、僕は終始、ダイナソーJr.のJ・マスシスみたいだなって思いながら観ていた。かっこいいよな、Jも曽我部恵一も。

ライブの中盤、寡黙に進むステージの合間で、曽我部さんが一言だけ言ったこと。僕は思わず鳥肌が立った。

「よく来たね、ありがとう」

この言葉が持つ両義性。優しさと寂しさ。喜びと悲しみ。

答えなき社会の感情のほつれを、曽我部さんはたった一言の、温かくもあり残酷でもある「よく来たね」という言葉だけで、全て具現化する。本当に恐ろしい人だ。

書き言葉が話し言葉を侵食し、早〇〇年。いつの時代のどの出来事が起点かは知らないけれど、世間はどこもかしこもマニュアル言葉は書き言葉。誰が耳にしても意味の誤解を生まない様、言葉と感情は今日も明日も単一化の一途を辿る。特に今は、誰もが誰かの命を預かる毎日だ。誤解を与える言葉は、その意図を議論する場すら得ることなく、社会からキャンセルされる。

でも、僕の心に刺さる言葉は、いつだって多様な(要は自分勝手な)解釈ができて、時に無責任で、時に残酷で、なのにどこか愛情に溢れた、曖昧さで出来ている。

映像越しに、遠く苗場の山間の出来事を楽しむ僕に向かっても、曽我部さんは「よく来たね、ありがとう」と、不思議と呼びかけてくれている様に感じた。僕は僕なりに、そう都合よく、サニーデイサービスのライブを楽しんだ。

そしてその後、トイレに行っている間に聴き逃した曲が「セツナ」であったことを知り、激しく落ち込むのだった。


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