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沖乃かえる自己紹介

40歳からの健康筋肉トレーナー
沖乃かえる(おきの かえる)
1975年10月7日生まれ 兎年 てんびん座 AB型

鹿児島県出身 福岡県在住
トータルウェルネスアドバイザー
理学療法士  
太極拳インストラクター 
健康経営アドバイザー

子どもの笑顔と親の健康を考える

2022.11 次女と三女の七五三

35歳で結婚、3人の娘に恵まれました。子が生まれて考えることというと、子どもの笑顔と健康ですね。子どもが笑顔で健やかに過ごすために大事な環境のひとつは、親が健康であることです。親が健康でないと、子どもと遊ぶこともできないし、仕事もできず、子育て資金も得られなくなってしまいます。そのために、40歳からの健康筋肉トレーナーとしての活動を開始しました。親が健康的な生活に取り組むことで、子どもと共に歩む人生を輝かせたい。そうすることで自然と子どもたちもその取り組みに興味を持ち、家族で健康になれることを願います。

現在、2025年4月の本格始動に向けて準備中!!

そんな私の自己紹介をご覧ください。

泣き虫だった少年時代

1975年10月7日鹿児島県出水市で2人兄弟の次男として生をうけた。
敬謙なカトリック教徒であり教師であった両親の下、小さいときから人にやさしく、正義感が強く、負けず嫌いな子供だった。
気も強かった。気が強いが喧嘩はめっぽう弱かった。勝った記憶がない。悔しくてよく泣いた。泣き虫で有名だった。それでも、よく喧嘩をした。
小学3年生の時、クラスで一番大きくて力が強い男の子が、女の子の嫌がることをしていた。やめさせようとして、その男の子に無言で突進した。あえなく転がされた。それでも突進した。やはり転がされた。泣きながら何度も何度も突進した。男の子も困りながら、私を転がした。先生が止めに入るまでやめなかった。そして、悔しくて泣いた。
 
泣き虫だった私は、高学年のころは、同じクラスで学年1番の不良に毎日のように泣かされていた。すぐ泣くのが面白かったようだ。嫌がらせも泣いたらすぐに終わる。周りからは、「イジメられていてかわいそう」という声があったようだが、私は一度もイジメられていると感じたことはなかった。イジメられているということにしたくなかったし、その不良とも友達であると思っていたからだ。友達も多かったし、普段は不良とも普通にしゃべっていた。泣かされていても学校に行きたくないと思ったことはなかった。体育でサッカーがあれば、仕返しするように、スライディングでそいつの脚を狩りに行った。私はつくづく喧嘩は弱いが気が強いのである。

夢見る小学生時代

 初めて打ち込んだのは一切習ったことがないサッカーだった。小学1年~2年にかけてキャプテン翼にあこがれた。放課後友達と毎日のように練習した。参考書は「漫画キャプテン翼」だった。なぜか部活には入らなかった。それでもプロサッカー選手になれると信じていた。恥ずかしいくらいになれると信じていた。
 
小学生時代は、とにかく近所の友達と集まってはサッカー、野球、卓球、警察泥棒、鬼ごっこして遊んでいた。流行りものにも敏感で、キン消し集め、ガン消し集め、ビックリマンシール集めに夢中になった。しかし、ファミコンには夢中にならなかった。ゲーム機を買ってもらえない家だったからだ。その代わり、1980年代当時珍しかった父のパソコンで遊ばせてもらった。ゲームをするためには、プログラミングをしなければならなかった。すでに完成しているプログラミングが載っている本があったので、その本をみながら大量の文字を打ち込んだ。ゲームをするために、兄と二人で必死に文字を打ち込んだ。当時のパソコンには保存機能はなかったので、やり始めたら最後、出来上がるまで打ち込みを止めることはできなかった。しかも、打ち込み終わったとしても、一文字でも間違うとエラーとなってゲームはできない。また最初から打ち直しという恐ろしい世界であった。完成まで数日かかることもあった。そんな思いをして出来上がったゲームは、ファミコンには到底及ばない単純で雑なゲームだったが、それでも兄と一緒に夢中になった。この時の将来の夢はプログラマーだった。もちろん一時的な夢だった。

周りと違うことがしたかった中学生時代

中学生になると映画観賞に熱中した。特に洋画を見た。映画好きの友達と集まっては映画や俳優の批評をした。そうすることで、周りよりも大人の気分になっていた。テレビのスポーツ観戦にも熱中した。当時はNHKのBS放送でアメリカンフットボール(NFL)やアイスホッケー(NHL)の放映があった。見たこともなかったスポーツに惹かれてよく観戦した。ルールは実況解説を聞いて覚えた。応援チームは、スター選手がいたサンフランシスコ・49ersとユニフォームが可愛いピッツバーグ・ペンギンズだった。この観戦は兄弟の間だけの流行りだったので、友達の誰とも会話を共有できなかった。この頃は、ともかく周りと違うことがしたかった。音楽も兄が聞いているミュージシャンの音楽を聴いては、周りより大人ぶっていた。いずれにしても、アメリカに憧れ、背伸びしたい年頃だった。
 
習い事はバイオリンを始めた。鹿児島県の田舎でバイオリンを習う人なんて珍しいことだった。中学生の私にとっては、この珍しいということがとても重要だった。田舎では、クラッシク音楽を志す男子は少数派でマイノリティだった。男のくせにとも思われていたが、これが私にとっては心地よかった。
 
スポーツは、なぜか一切習ったことがないバレーボールに熱中した。中学校には男子バレーボール部はなかったので、友達と二人で自己流の練習をした。恥ずかしいことに、プロのバレーボール選手になれると思って練習していた。その頃のバイブルは「健太やります!」という私のように身長が低いレシーバー(今でいうリベロ的ポジション)が主役の漫画だった。

独立心が芽生えた高校生時代

出水市音楽祭1993.12

高校生になると、念願かなってバレーボール部に入部した。初めて部活動というものに所属した。地区大会レベルの弱小バレー部で、部活に力を入れず学業を重視するタイプ顧問の下での部活動。指導者不在の練習は、バレー初心者にとっては厳しいものだった。中学からバレーをやっている上手い人がと一部の身体能力が高い人が楽しむ部活となっていた。それでも3年生まで食らいつき、小さい私はレシーバーとしてベンチに入った。唯一の活躍は、県大会でピンチサーバーとしてコートに入りサービスエースと決めたことだった。この頃はもうバレーボール熱は冷めていた。部活の一体感も肌には合っていなかった。しかし、今まで習い事に熱心だった母に勧められた習い事しかしてこなかった私にとって、バレーボール部への入部は、初めて自らやりたいことを決めて、実行した経験だった。何とも言えない高揚感と、独立心を感じた経験だった。
 
そんなバレーボールとは違い、最後まで夢中になったのはバイオリンだった。バイオリンの先生は、私にとって良き指導者だった。唯一、高校卒業までやりきった習い事だった。先生は、よく下ネタを言うふざけた男の先生だった。バイオリン愛あふれる人でもあった。私はそんな先生が大好きだった。最初は母の勧めで始めたバイオリンだったが、先生が大好きだったので、どんどんバイオリンに熱中して行った。高校3年生になり、最後は楽団のソロバイオリンを任されるようになった。結局、受験前まで習い続けて、母に心配された。それだけが原因ではないが、大学受験には失敗した。
 
高校生の半ばから、いつしか獣医師を目指すようにいなっていた。たしか、テレビドラマで見た獣医さんへの憧れだったような気がする。獣医学科を持つ大学は少なく、激戦だった。そもそも、私の偏差値は底辺だったので、獣医学科を有する大学に合格できるはずもなく、受験には落ちるべくして落ちたのだった。 

勉強に捧げた浪人生時代

浪人生活の始まりである。どうせ浪人するなら、厳しい予備校で学びたいと全寮制の北九州予備校の門を叩いた。予想外は、まさかの門限5時だった。高校卒業まで一人旅もしたことがなかった私にとって、親元から離れるのは初めての経験だった。初日の夜はちょっと泣いた。
 
浪人生のイメージは、遊んでいるか、勉強しまくっているかのどちらかである。私は、勉強しまくっていた。遊べなくてかわいそうに思われることが多いが、遊べないことに対するストレスはほとんど無かった。合格しなければならないというプレッシャーはあった。けれども、「浪人生は何も考えずに勉強さえしておけば良いのだ。他のことを考える必要がない。こんなに気楽なことがあるだろうか。」と半分言い聞かせながら浪人生活を送った。
 
浪人生になって一つ大胆なチャレンジをした。理科の科目選択で生物を選択したのだ。実は、私が高校生時代に選択していた理科の科目は物理と化学だった。生物は一度も学んだことがない。にもかかわらず生物を選択した。高校で学んだ物理と化学は、私にとってはつまらないものだったからだ。点数も常に赤点ギリギリの点数しかとっていなかった。父は化学と数学が専門の高校教諭で、兄も父に負けず劣らず超理科系人間で、物理と数学が得意科目で大学でも物理を専攻していた。そんな二人への憧れもあったし、私もそうなのだろう思い込んだこともあり、同じ理系の道を歩んだ。その結果、間違っていたことが分かった。そこで、ハマっていなかった物理・化学を選択するよりは生物を選択したほうが、まだ好きになる可能性を秘めているのではないかと考え、浪人生になってから、生物にくら替えした。
 
この判断は正しかった。素晴らしい生物の先生に出会えたことで生物が大好きになり、一年間の勉強で、難関大学の筆記試験の問題でも解けるレベルまでになった。おかげで、1浪目では国立大学や県立大学に合格できた。しかし、すべての獣医の大学には落ちた。獣医を諦めきれず、2浪目が始まった。滑り止めに合格していたにも関わらず、2浪目に臨んだ。この時初めて、2浪させてくれた親の凄さとありがたみを感じた。私も、こんな親になりたいと思った。こんな風に、経済的にも心情てきにも子供を応援できる親になりたいと思った。

しかし、その甲斐むなしく2浪してもダメだった。センター試験は、終了間際にまさかのマークミスに気が付いたが、訂正する時間もなく惨敗に終わった。その夜は母への報告電話をした。人目をはばからず電話口で嗚咽した。悔しさと申し訳なさが入り混じった感情だった。2年間の浪人生生活は、初めて目標に向かって本気になって取り組んだ経験だった。学ぶ楽しさも知った。ここから、いつも勉強する人生が始まったのだと思う。そして、今回はさすがに滑り止めの大学に入学した。

青春を取り戻す大学生時代

2浪した末に入学したのは、神奈川県にある麻布大学獣医学部動物応用科学科。なんとなく獣医にかすっているが、獣医学科ではない。
アパートでの一人暮らしも始まった。自由だった。袋のチョコレートを独り占めできた。牛乳を直飲みしても怒られない。バイトもした。バイト代で、生まれて初めてゲーム機を買った。プレイステーション、セガサターン、ファミコン、スーパーファミコンと、次々と購入して家はゲーム機だらけになり、一晩中ゲームに熱中した。運動は一切しなかった。
 
軽音楽研究会に所属して、バンド活動と飲み会ばかりしていた。やはり、運動は一切しなかった。
 
大学3年生からは動物繁殖額研究室に所属して、やっと真面目に勉強しだした。豚の飼育をしながら豚の精子の研究をした。研究室に泊まり込みながら研究することも多かった。研究の面白さを知ることができた。家畜人工授精師の資格も取得して、就職に役立てた。
 
実は、大学4年生の秋に獣医学科への編入試験に臨んだのだが、あえなく惨敗した。

獣医師への道は終わった。

失敗とトラブルが続いた最初の就職

オス豚からの精液採取前

大学を卒業した私は、SPFというほぼ無菌環境で育った種豚を生産する会社に入社した。自称即戦力ルーキーだった。大学での経験を活かして、主に豚の精液採取と人工授精を行っていた。赴任先は千葉県館山市の事業所だった。充実した仕事をしていたが転勤を機に状況は一変した。経営が傾いていた事業所に活きのいい若者を送ることになり、私が指名されたのだ。私は福島県浪江町の事業所に転勤した。その職場の雰囲気はあまり良いものではなかった。本社採用と現地採用との間に溝があり活気はなかった。それでも、私は持ち前の八方美人で、どちらの方々からも可愛がられていた。当時のことを思うと恥ずかしいが、いわゆる常識を知らない近頃の若者だった。それをよく思わない人とは反りが合わなくなってきた。そんな中、事業所に数百万円の損失を出す失敗をした。オスの種豚の調教に失敗したのだ。オス豚の精液採取はメスがいなくても発情させて射精できるように調教する。それによって効率的な精液採取ができる。その、数百万かけて導入した種豚の調教に失敗した。発情したメスを近くに連れてこないと情できないオスにしてしまった。事業所の豚舎内から発情したメス豚を探しだす手間なども含めて、金額的・時間的損失を発生させてしまった。出来るはずだった。大学時代からの豚の扱いに長け、自称即戦力として入社した私は、思いあがっていた。頭でわかっていることと実践することの違いを思い知らされる経験だった。社長は、「数百万円の損失くらい気にするな」と慰めてくれた。しかし、人間関係の問題もあり、さらにご近所トラブルなども続き、その場から居なくなりたいという思いが強くなっていた。 

逃げるように熱中したスノーボード

福島県に赴任してすぐにスノーボードを始めていた。仕事への思いが弱くなることに反比例して、スノーボードへの思いは強くなっていった。スノーボードを始めて1シーズンで検定試験に合格できるまで上達していた。自分にスノーボードの才能があると思い込んだ。思い込んだらもう止められなかった。考え付く先は、学生時代と同じで「プロスノーボーダーに俺はなる!」だった。しかし、ここからは学生時代とは違った。実行に移す準備を始めた。周囲は大反対だった。職場の上司も、両親も、お付合いしていた彼女からも大反対にあった。周りの説得もむなしくプロスノーボーダーになる意思は変わらず、会社を辞めてカナダに留学することを決めた。迷いはなかった。大学時代からスポーツと無縁な生活を送っていたので、周囲は本当に驚いていた。

1年間のカナダ留学作戦

ウィスラーの夏 スノーボード練習中

カナダでの留学期間は1年。留学先はウィンタースポーツのメッカであるウィスラー。有名なバンクーバーから北にバスで3時間移動した場所にある世界でも有数のリゾート地だった。最初の3ヵ月はスノーボードの学校に所属して住まいはホームステイとした。その3ヵ月の間に、住まいと仕事を探す作戦だった。貯金は学校とホームステイにつぎ込んだので、この1年間カナダ留学を成功させて、スノーボードをやり続けるためには、できる限り安い住まい探しと、仕事を探すことが前提だった。

充実した最初の3ヵ月

学校で指導してくれる先生は、カナダのプロスノーボーダーたちだった。中にはオリンピックカナダ代表のレジェンドもいた。ともにトレーニングする仲間もでき、どんどん上達した。あっという間の3ヵ月。ここから先、所属する場所もなく、自立しなければならなかった。運よくホームステイ先の方が経営している清掃会社でハウスキーパーとして働くことができ、住まいもシェアハウスを見つけることができた。

解雇されてからのバイト探し

バイトを始めて2か月がたったある日。明日から来なくて良いといわれ社員以外は全員解雇された。5月になりウィスラーはシーズンオフになっていたからだ。このままでは、カナダにいられなくなる。慌てて次のバイトをさがしたが、街はシーズンオフになっておりバイトの募集は激減していた。どこを訪ねてももう決まっていたり、カナダ人優先だったりとバイトが見つからず、スノーボードどころではなくなっていた。そんな中、バイトが見つからない悩みをカナダ人の友達に話す機会があった。その友達がかけてくれた言葉は慰めではなく厳しい言葉だった。「お前は、ウィスラー中すべての店や会社を訪ねたのか」と。核心をついた一言に、ぐうの音もでなかった。まだまだやれることは残っていた。弱気になっていた私に闘志がわいてきた。私は履歴書を40枚印刷して準備した。そして、バイトを募集していようがいまいが、ウィスラーにある端の店から直接訪ね始めた。当然断られ続けた。しかし、ついに受け入れてくれるお店が現れた。ちょうど5~6軒目に日本人が経営している寿司屋を訪ねたところ、快く私を受け入れてくれた。持つべきものは日本人である。やっとスノーボードに打ち込めるようになった。

怪我からの理学療法士との出会い

バイトも見つかり、スノーボードのトレーニングも再開でき、もう一段階レベルを上げる練習をしていたある日、転倒して左膝内側側副靭帯断裂をした。幸い、手術は免れたが、バイトは休むことになり、カナダに来て一番のピンチにみまわれた。本当に生活費が尽きてきた。しかし、助けはあるもので月に2回、教会で生活が苦しい人のために教会で食料の配給があることを聞きつけた。松葉杖をつきながら行ってみると沢山の食料を配給された。半月分は何とかなった。

しばらくするとリハビリが始まった。担当してくれたスキーのカナダ代表に帯同したことがある理学療法士だった。痛みの緩和からトレーニングに至るまで丁寧に教えてもらえた。その結果、無事にスノーボードに復帰することができた。この時、初めて理学療法士という仕事を知り、尊敬の念を抱いた。理学療法士という文字が心のノートにメモられた瞬間だった。

帰国、そして理学療法士へ

カナダにいる間に、結局プロスノーボーダーになる芽はでなかった。圧倒的に周りとの実力差を思い知らされた。せめてもの収穫として、カナダのスノーボードインストラクターライセンスを取得して帰国した。帰国後もプロスノーボーダーを目指して練習する計画を考えていたが、先立つ資金がもうなくなっていた。というわけで、いったん食つなぐために、手に職をつけることを考えた。何をしようかと母と一緒に考えていたところ、母から「理学療法士は?」という言葉が出てきた。カナダでのリハビリ経験がよみがえり、これだ!と思った。身体とトレーニングの専門家になってスノーボード技術を磨くことを考えた。理学療法士の専門学校受験1カ月前のことだった。残り1カ月だったが、予備校時代の勉強が役に立った。受験勉強をし始めるとすぐに、当時覚えた記憶がよみがえってきた。おかげで専門学校受験も合格することができた。

障がい者スポーツの理学療法士へ

夜間部の専門学校に入学すると同時に、障害者のスポーツ選手の治療ができる理学療法士になりたいと思った。カナダのスキー場では、障がい者も自由にスポーツをしている光景を目にした。日本もこんな風になったら良いなーと漠然と考えていたが、せっかく理学療法士になるのであればそのお手伝いができるかもしれないと思い始めた。そこで、学生の間に経験を積みたいと思った。できれば得意のスノーボードでサポート経験を積みたいと思いつつ調べていると、福岡でも障がい者のスノーボードをやっている所があるという情報が入ってきた。それがスペシャルオリンピックスだった。(スペシャルオリンピックスとは、知的発達障がい者による世界規模のスポーツ活動でありスポーツの祭典。その選手たちのことをアスリートと呼んでいる。)早速問い合わせしてスノーボードのボランティアコーチをすることとなった。当時、福岡には屋内スノーボード場があり、1年中スノーボードの練習ができた。

コーチングは難しい

当時のスペシャルオリンピックスには、本格的にスノーボードを学んだ人材は少なかった。自分なら相手が知的発達障害者であろうが、すぐに滑らせて上げられると思いつつ、意気揚々とコーチングを始めた。まったく通用しなかった。インストラクションの知識を動員しても歯が立たない。スノーボードの技術や指導技術でどうにかなるような甘い世界ではなかった。しかし、周りのコーチ達を見ると、楽しそうにコミュニケーションをとりながら滑らせていた。信頼関係が出来ていたのだ。スノーボードよりもアスリートと向き合うことの方が大事だった。そこで、もっとアスリートのことを知ることを始めた。親御さんに話を聞いたり、アスリートとコミュニケーションをとったりして、接し方を考えた。なにより、自分が活動を楽しむことを心掛けた。すると、私の動きを見てくれるようになり、話しも聞いてくれるようになった。スノーボードの技術やインストラクションの技術は、信頼関係があってこそ伝わるものだということが分かった。

あるアスリートとの経験

このスペシャルオリンピックスでは、様々なレベルの知的発達障害をもつアスリートたちがいる。中には、自分でスノーボードを装着することもできず、雪上に立つことすらできないアスリートもいた。それでも、このアスリートは黙々とスノーボードの装着から雪上に立つということをチャレンジし続けた。5年くらいが経過した頃だろうか。彼は自分でスノーボードを装着して、自ら雪上に立って滑ることができるようになっていた。最初の数年はできる兆しは見えていなかったので、嬉しさと驚きが入り混じった感情を持ったことを覚えている。この時、成功するための神髄を教わった気がする。それは、「成功するまでやり続ける」ことだ。

プロ野球選手御用達病院への就職

そんなことをしながら、専門学生時代を過ごした。国家試験も合格し、就職した先は、プロ野球選手を始め各種スポーツ選手がリハビリに訪れる整形外科病院だった。もちろん一般患者もたくさん来るので、プロスポーツ選手も子供から高齢者までも、一日中患者さんがひしめき合うような病院だった。研究も盛んで、多くの学会で発表することができた。おかげで、院外では障害者のスポーツに関わり、院内ではプロスポーツ選手に関わり、学会発表という実績も作ることが出来た。願ったり叶ったりの環境で仕事を続けられた。

人がやりたがらない仕事を一手に引き受ける

私は、適応力人間だ。だいたいの仕事は柔軟に対応できる。そのため、人がやりたがらない仕事を引き受けることが多かった。理学療法士というのは職人気質が多く、理学療法しかやりたがらない。技術職なので当然といえば当然だ。しかし、理学療法士が理学療法しかやらないというのは、当たり前すぎて仕事の成果としては目立たない。理学療法だけで目立った成果を出すには競争率が高すぎるとも思っていた。私は、何でもやった。研究、学会発表、生活習慣病委員、教育委員、講演会などのイベント運営、毎年の病院忘年会幹事、太極拳教室運営、ヨーガ教室運営、患者向け健康教室、職員健康増進企画の立ち上げ運営、デイケア管理、訪問リハビリの立ち上げと管理、メダカの世話など。それによって、病院内での地位を上げていき、年間MVPにあたる金賞を獲得した。

スペシャルオリンピックス冬季世界大会への参加

冬季世界大会2013ピョンチャン 選手にメダルをかけてもらった♪

スペシャルオリンピックスコーチをつづけて8年。驚きの依頼が来た。2013年開催のスペシャルオリンピックス冬季世界大会ピョンチャンにスノーボードヘッドコーチとして参加して欲しいというものだった。2週間は休みを取る必要があり、参加は難しいと思っていたが、スペシャルオリンピックス日本理事長である有森裕子さんからの直々の派遣依頼書をみて、職場も快諾に至った。大会の結果は惨敗だった。世界で戦うことの厳しさを痛感した。ヘッドコーチとしてチームの雰囲気作りにも失敗していた。私の中でチームの統率を中心とした雰囲気を作ってしまい、大会を楽しむという要素を少なくさせていた。

2度目の世界大会

冬季世界大会2017オーストリア 5選手全員メダル獲得♪

あれから、4年が過ぎ再びスペシャルオリンピックス冬季世界大会2017に参加するチャンスが来た。今回の舞台はオーストリア。生まれて初めてのヨーロッパに心が躍る。2回目となると大会の雰囲気もわかっており、気持ちに余裕があった。日本選手団の中での役割も増え、スノーボードチームのヘッドコーチだけではなく、日本選手団のトレーナー的な役割も担った。今回は、前回の失敗も踏まえて、大会を楽しむことをテーマにして、合宿のうちから意識的に楽しくチームを盛り上げた。その結果、力みの抜けた良いチームになっていた。大会中は、競技本部の判定に対しての異議申し立ても積極的に行い、選手の為に戦う姿勢を維持した。つたない英語であっても気持ちは伝わるもので、競技委員長自ら説明に動いてくれた。基本的にスペシャルオリンピックスのコーチたちは親切でボランティア精神にあふれている。私が必死に抗議していると他国のヘッドコーチも助けてくれた。特にイタリアのヘッドコーチは私と同様に前回大会から続けて参加していたので顔なじみになっており、お互いに情報交換をしながら助け合った。最終的に、出場した5人全員がメダルを獲得し、充実した大会となった。

太極拳との出会い

勤務先の病院では週に1度太極拳が行われていた。経営者の趣味が高じて始まったものだ。繰り返しになるが、私は適応力人間である。人が嫌がる仕事も引き受けて適応して職場での評価を積み上げていた。太極拳に誘われた時もそうだった。みんなが嫌がっていること知っていたので、私がやるしかないと思い太極拳を始めた。しかし、どうせやるなら楽しみたかった。もともとカンフー漫画である「鉄拳チンミ」を長年愛読しており、少年時代はジャッキーチェンに憧れていた私にとって、中国武術でもある太極拳を好きになるのに時間はかからなかった。この時の年齢は35歳。太極拳はお年寄りが始めるイメージが強かったが、私はまだ若い。このままいけば、周りの人たちが太極拳をやり始める年齢になるころには達人になっているかも。ということは、将来モテるかも?という打算も私の太極拳熱を後押しした。それと同時に、太極拳の研究も始めた。研究のために論文を読み漁っていると、ともかく太極拳には心身に対する医学的根拠がそろっていることがわかった。これだけ医学的根拠がそろっている太極拳を将来モテるためだけに使うのはもったいない!太極拳の指導者として、予防医療に役立てられないかと思うようになった。

介護部門の管理者になった

2年前に病院の介護部門の管理者になった。そこには、維持期と言われる介護状態の人が来る。利用者の皆さんは「自立したい」「また旅行したい」「また買い物に行けるようになりたい」という希望をもって入所される。しかし、現在の介護保険制度の中では、十分なリハビリを行うことが出来なかった。さらに介護サービスをより充実させようと、介護度を上げたがる人やその家族が少なくない。これでは、みなさんの持つ希望に近づくどころか遠ざかる一方だった。以前から予防医療に興味を持っていたが、健康のためには、こうなる前に手を打たなければならないという思いが強くなった。

トータルウェルネスアドバイザーとなる

素敵な仲間たちと共にTWA資格取得

2022年の正月。コロナに感染して高熱でうなされている中。谷けいじとの衝撃的な出会いがあった。何気なくインスタグラムも観ていたら、トータルウェルネスアドバイザー(TWA)になって、日本に體育(たいいく)を広げて、健康格差のない世界を目指そうという広告が目に入った。その代表が谷けいじだ。
自身が、パーソナルトレーナーとして1から起業して有名になった方。
知識だけではない、実践が学べると感じた。さらにはその人柄に惹かれてTWAに飛び込んだ。
案の定、谷けいじはすべてを惜しみなく教えてくれた。
ヘルスケア、プレゼン、マーケティングを身につけ、素晴らしい仲間と共に
トータルウェルネスアドバイザーとなった。

ベストボディジャパン出場

2023.10.15モデルジャパン九州大会

半年間のボディメイクの集大成として、ベストボディジャパン(モデルジャパン)に出場した。大会当日状態は、身長160㎝、体重49kg、体脂肪率7.1%
結果は予選敗退。上位の選手とは筋肉の厚みが違った。
ボディメイクはつづく。

現在は、健康的に体脂肪率15%を維持しています。

最後まで読んでいただきありがとうございます。
音楽・畜産・スノーボード・理学療法士・太極拳・コーチング・健康経営
そして、トータルウェルネスアドバイザーを通して、
40歳からの健康筋肉トレーナーとして活動を開始。
あなたと家族の笑顔と健康のためにともに歩みましょう。

2025年4月の本格始動に向けて準備中です!!


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