隠元禅師と黄檗宗 ②聖寿山崇福寺(長崎市鍛冶屋町)
①から少し日にちが開きましたが、長崎の黄檗宗シリーズ第2回は崇福寺について書きます。
第1回目の記事はこちら。
長崎市鍛冶屋町にある崇福寺は、1629年、長崎に住む福州人達が僧、超然を迎えて1635年に堂宇を建てました。1654年に明の高僧、隠元隆琦が来日しますが、初め興福寺に入山し、翌年には崇福寺にも入り住持をつとめたそうです。
長崎市鍛冶屋町にある崇福寺は、竜宮城を連想させるような国指定重要文化財である三門(楼門)が目印。見るからに中国風な寺院です。
国宝の第一峰門(だいいっぽうもん)。軒下の構造組物に特徴があります。
本堂にあたる大雄宝殿も国宝。釈迦三尊と十八羅漢像が安置されています。
向かい側は護法堂。向かって左に韋駄天、右に関帝、中央に観音を祀っています。
崇福寺の媽祖堂は前に堂門があります。(興福寺、聖福寺の媽祖堂には門はなし。)
また、崇福寺は毎年旧暦の7月26日から3日間、先祖供養のための盂蘭盆会が行われ、全国から華僑の方々が集まります。最終日には金山、銀山の飾り物を燃やして霊を送ります。子どもの頃2回ほど見物に行ったことがありますが、中国色一色の行事で日本のお盆とはまるで違っていました。
(もっとも、長崎ではお墓の文字が金色だったり、先祖の墓の隣に土神様をお祀りしたり、お盆には夜お墓で花火をするのが風習だったり・・中国の影響を多く受けているのですが。)
今回は、隠元禅師も短期間住持をつとめた長崎の黄檗寺院、崇福寺を紹介しました。大変中国色の強い寺院だと思われたことと思います。この隠元禅師が開祖となった黄檗宗が、なぜ将軍家や天皇家、各大名家の帰依を受けることになったのか・・その理由は少しずつ見えてきたように思います。
連載はまた続きます。
*参考文献
「長崎と隠元~黄檗文化の広がり~」ミュージアム県ながさき2021年10月号
「崇福寺縁起」パンフレット
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