見出し画像

肥前有馬氏の足跡を追って① 【丸岡城】(2022/5/1訪問)

昨年のGWのことですが、北陸地方へ行ってきました。
お目当ては、肥前有馬氏が藩主をつとめた丸岡城。

北陸地方に残る唯一の現存天守で知られ、重要文化財に指定されています。


丸岡城天守。
この日は生憎の雨でした。天気が良ければ肥前有馬氏の菩提寺
まで行く予定でしたが、あまりの天気に断念。


柴田勝家の甥で養子の勝豊によって建てられた丸岡城は「一筆啓上 火の用心…」の"日本一短い手紙"で知られる本多重次の子、お仙こと仙千代が長じて本多成重となり入った城で、本多氏が4代続いた後改易となり、次に入ったのが肥前有馬氏でした。


ジオラマ。現在堀は埋められています。


肥前有馬氏は、キリシタン大名の有馬晴信が1612年に岡本大八事件により死罪に。嫡男の直純は徳川家康の曾孫で養女でもある国姫を妻にしていたことから連座を免れ、家督を相続するも、その後日向国縣(あがた/のちに延岡と改称)に移封。直純の孫、清純の代の1690年に領民の逃散一揆が起き、その責任を問われて1692年に無城大名へ格下げの上で越後糸魚川へ転封。その3年後、1695年に越前丸岡へ移封されます。

(有馬清純は越後糸地川への移封を不服とし家臣だけを行かせて自身は赴かず、丸岡に移封されてからようやく領国に赴いた、との話もあるようです。城持大名へ3年で復帰しており、家康の血が入っているゆえの優遇だと考えていましたが、加えてこの有馬清純、母親は譜代の家臣で老中家の阿部氏の出身で、当時の老中阿部正武の従兄弟に当たるようです。その辺りも優遇された理由だったのではないかと推測しています。)

丸岡藩主として有馬氏は8代続き、幕末を迎えます。

前々から一度訪れたいと思っていた丸岡城。この日は生憎の雨でしたが、武骨にも可愛らしくも見える小ぢんまりとした天守。中の階段は敵の侵入を防ぐため急階段になっており、ロープに掴まりながら上り下りするのも楽しく、3階に上って町並みを見渡しては、晴信の子孫がこうやって町並みを眺めたのかと思うと感無量でした。


天守の3階から見る丸岡の町並み。


天守の前付近に鎮座する石の鯱。


石垣はこんな感じです。

また、旧城郭内にある歴史民俗資料館には有馬氏の家紋のついた旗指物が展示してあり、これまた感動。島原を去った有馬氏の確かな足跡を感じることができました。

聞くところによると、有馬氏は丸岡の町では、延岡ではなく「島原から来たお殿様」と言われていたとか。また以前は、丸岡城の三の丸内に有馬晴信を祀った「青信御霊社(せいしんごれいしゃ)」という神社があったとか。幕府の罪人となった晴信を憚って「青信」と称してひそかにその霊を祀ったそうです。


城外の広場に飾られた有馬氏の家紋。


現在も丸岡の長畝八幡神社で奉納されている日向神楽(ひゅうがかぐら)は、有馬氏の移封に伴い丸岡に伝えられたそうです。
キリシタン大名の末裔が神楽を伝えるのと言うのも面白いですが、晴信の嫡男、直純は1612年の時点で棄教しており、幕府へのアピールの意味もあって神楽を厚く保護、継承したのかもしれませんね。


○丸岡城の公式サイトはこちら。サイトに掲載されている歴史マンガはなかなかわかりやすく面白く、有馬氏のこともよく取り上げてあります。


○坂井市が取り組んでいる「丸岡城百口城主プロジェクト」。ふるさと納税で丸岡城を支援できます。2021年開催のこちらのオンラインツアーで丸岡城の詳細を知ったことが今回の訪問の切っ掛けでした。


○城小屋マルコ。丸岡城の麓にあるお城好きのためのカフェ&スペース。雨の中お邪魔してきました。



*この記事は2022年5月6日のFacebookへの投稿に加筆、修正したものです。



この記事が参加している募集

日本史がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?