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肥前有馬氏の足跡を追って③【内藤記念博物館】(2024/4/29訪問)

肥前有馬氏が慶長19年(1614)に移封された延岡の地を念願かなってGWに訪問することができたので、昨年5月に投稿した記事「肥前有馬氏の足跡を追って」シリーズの続きとして投稿したいと思います。

*昨年投稿した記事はこちらです。


ここで戦国~江戸初期の肥前有馬氏について少しだけおさらいします。


【戦国~江戸初期の肥前有馬氏】
・鎌倉時代から肥前国有間荘(現在の長崎県南島原市北有馬町、南有馬町付近)を拠点とする一族で、有馬晴純(仙岩)の代には肥前守護であり、修理大夫に任官され将軍偏諱の「晴」の字を賜り屋形号をゆるされていた。全盛期には藤津、杵島郡(現在の佐賀県中央部)、天草諸島の一部までをも勢力下におき、東西肥前統一を目前としていた。
・永禄六年(1563)有馬義貞の代に丹坂峠の戦いで龍造寺軍に大敗し、急速に勢力が弱まる。
・元亀二年(1571)義貞より家督を継いだ義純の早逝により、その弟の晴信が家督を継ぐ。
・天正七年(1579)龍造寺氏に起請文を提出し、服従を誓う。
・天正八年(1580)龍造寺氏に対抗するためイエズス会の援助を受けるべく、口之津に来航したイエズス会巡察使、ヴァリニャーノにより洗礼を受ける。洗礼名、ドン・プロタジオ(のちにドン・ジョアン)。
・天正十年(1582)ヴァリニャーノの発案により天正遣欧少年使節をローマへ派遣(晴信の名代は従兄弟の千々石ミゲル)。
・島津氏と手を組み、天正十二年(1584)沖田畷の戦いにおいて龍造寺軍に勝利、所領を守る。戦勝記念としてイエズス会に浦上を寄進する。
・天正十五年(1587)島津氏と手切れし、豊臣秀吉に臣従。島原半島4万石を安堵される。同年、伴天連追放令が出される。
・文禄元年(1592)小西行長に従い大村・松浦・五島氏とともに文禄・慶長の役に従軍。
・慶長五年(1600)関ヶ原の戦いに際し東軍に与し、徳川家康に所領を安堵される。
・慶長十四年(1609)前年のマカオでの殺傷事件の報復のため長崎港沖でノッサ・セニョーラ・ダ・グラサ号を撃沈させる。
・グラサ号事件の恩賞として鍋島領となっていた肥前国三郡を回復しようと画策し失敗。慶長十七年(1612)晴信は甲斐国に流され賜死となる。(岡本大八事件)
・晴信の嫡男、直純は徳川家康の養女、国姫を正室に迎えていたこともあり連座を免れ元の所領を新恩給付される。キリスト教を棄教し領内のキリシタンを弾圧するも、願い出て、慶長十九年(1614)日向国縣へ転封となる。



縣(延岡)のあと肥前有馬氏は越後国糸魚川を経て越前国丸岡へ移封し、幕末まで存続します。よって延岡藩主をつとめたのは

   「有馬直純・康純・清純」

の三代になります。
同じ九州なのですが、北部九州から延岡はなかなか行きにくく、GWの家族旅行を機会にようやく訪問することができました。

雨だったので、まずは延岡城西之丸跡地にある「延岡城・内藤記念博物館」へ。こちらは旧延岡藩主・内藤家の邸宅が寄贈されてできた博物館で、2022年にリニューアルされました。平常展示室はなんと無料で観ることができます。


延岡城・内藤記念博物館


展示室に入るとまず目に入るのは「日しゅう(「刀」3つ)延岡城主 有馬左衛門佐 従五位藤原朝臣康純」との銘が刻まれた、有馬康純が今山八幡宮に寄進した鐘で「延岡」の初見資料といわれています。知ってはいましたが、実物を間近で見ることができて大感激!
この鐘は、西南戦争の際に薩摩軍からの徴発を恐れた市民が隠して徴発を免れ、戦後城山に移し、時を告げる「城山の鐘」として昭和38年まで使用されたそうです。現在、城山(延岡城天守台跡)には2代目の鐘が設置されています。


延岡城天守台跡にある2代目の城山の鐘。
今でも1日に6回(6時、8時、10時、12時、15時、17時)
人の手で撞いて延岡の町に時を告げているそうです。


展示室に入ると旧石器時代からの延岡の町の歴史史料が展示されています。
気になるのは江戸時代ですが、延岡藩は有馬氏を含む以下の5家が入封しており、この5家が紹介されていました。

  高橋家(1587~1613) 外様5万3千石
  有馬家(1614~1691) 外様5万3千石 ⇒ 5万石
  三浦家(1692~1712) 譜代2万3千石
  牧野家(1712~1747) 譜代8万石
  内藤家(1747~1871) 譜代7万石


縣城(延岡城)を築城し城下町の基礎を造ったのは初代藩主の高橋元種で、筑後高橋氏の一人ですが、元はあの秋月種実の次男で高橋家に養子入りした人物です(事情は複雑につき今回は省略)。徳川家康により所領を安堵されるも慶長十八年(1613)に詳細は不明ながら「罪人隠匿の罪」で改易されます。
その後に入封したのが有馬直純です。

展示室にババ~ンと大きく展示してあるのは”きよたか美術館”所蔵の「延岡城下図屏風」のレプリカで、有馬氏が延岡藩主であった頃の城下を描いたもの。有馬康純隠居宅が描かれているので清純が藩主の時代と思われます。
この有馬氏3代の中で最も長く治世を行ったのが康純で、1613年生まれのこの方、母の国姫と共に徳川家康に目通りし「康」の偏諱を受けたといわれており、延岡城を大規模改修し天守代わりの三階櫓を建て、町を整備し、「延岡」という名前を付けた殿様として評価が高いようです。
(三階櫓は天和二年(1682)の火災で焼失し、その後再建されることはなかったそうです。)
長崎にはない近世初期の有馬氏の資料を目にして感激しきりでした。

肥前有馬氏はその後、清純の時代である元禄三年(1690)に山陰・坪谷村の領民の大規模な逃散一揆が起き、その責任を問われた清純は元禄五年(1692)、無城大名へ格下げの上越後国糸魚川へ転封となります。
清純は糸魚川の3年後にさらに越前国丸岡へ移封となり、肥前有馬氏は丸岡藩主として幕末まで存続します。

延岡市内にある本東寺に有馬康純夫妻の墓があると知り、翌日お参りしました。ここには母親の国姫(日向御前)の墓もあります。
国姫といえば長崎では「粗暴でキリシタンを嫌った」「夫の直純を唆せてキリシタンを弾圧した」といわれていますが、ここ延岡では藩主の正室として、康純の母として、普通に崇敬されていたように思います。


延岡市本東寺にある有馬康純公夫妻の墓。右側が康純公で左側が奥方(永純の母)の墓。
永純とは後の清純のことで、その母親である老中阿部忠秋養女の墓と思われます。



本東寺にある日向御前の墓。


長崎は島原半島に興った肥前有馬氏ですが地元に残る史跡としては日野江城、原城くらいしかなく、こうして延岡や丸岡を訪れその確かな足跡を知ると言い知れぬ感動を覚えます。

長くなりましたので、延岡城編は④として続きます。


*延岡城・内藤記念博物館の公式HPはこちら。
この投稿で内藤記念博物館の図録「MUSEUM GUIDE BOOK」を参考にさせていただきました。


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