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肥前有馬氏の足跡を追って④【延岡城】(2024/4/29訪問)

前回の③に続き、肥前有馬氏と延岡城のことを書きます。


*前回の記事はこちらです。


内藤記念博物館を見学した後、雨足も少し弱くなってきたので延岡城跡へ移動。
西の丸跡にある博物館からも石垣が見えていました。

内藤記念博物館から見た延岡城跡。中央左にうっすら見える煙突は旭化成の煙突。延岡らしい風景です。

「延岡城の誕生」
奈良時代・平安時代の延岡は、この地域の豪族である”土持家”により支配されていましたが、豊臣秀吉が天下統一を成し遂げた1590年(天正18年)秀吉の命を受けた「高橋元種」公が延岡の地に赴任し、延岡城は高橋元種により1603年(慶長8年)完成しました。

(延岡観光協会HP「延岡城跡・城山公園」より引用)


シリーズ③にも書きましたが、築城したのは初代藩主の高橋元種です。
高橋元種について、実はこの時点で"高橋氏だから岩屋城の戦いで有名な高橋紹運じょううんの系統?"くらいの知識しかなかったのですが、後で調べてみたら系統は全く別で秋月氏の出身でした(汗)。『戦国武将列伝九州編』(新名一仁編/2023.7/戎光祥出版)には「秋月種実の弟とも子息ともいわれる」「宣教師の記録によると種実の子息」とありました。養父は高橋鑑種あきたねといい、筑後の名族である高橋氏の嫡流が絶えたため豊後国の一万田いちまだ氏から養子入りした人物で、大友領である岩屋・宝満城督となるも毛利氏と結び大友氏に叛きます。後に大友宗麟に降伏し豊前小倉に移封。
高橋紹運(鎮種しげたね)は、この養父の高橋鑑種が筑前から豊前小倉へ移封された時に、高橋旧臣らが大友氏に嘆願して「筑前における高橋氏の後嗣」として迎えた大友家重臣の吉弘鑑理あきただの次男だそうです。
高橋氏は鑑種の系統を一万田系高橋氏、紹運(鎮種)の系統を吉弘系高橋氏と称するようです。つまり高橋元種も紹運も、どちらも別家から養子入りしたことになりますね。
(このあたり「種」「鑑」「鎮」の字が入り乱れややこしい・・「種」は九州の豪族、大蔵党の通字です。)

では、お城に上ってみましょう!

城山公園にある歴代藩主の碑。


延岡城跡は現在城山公園として整備され、麓には広い駐車場があり道も舗装されているので上るのはさほど苦ではありません。

まずは天守台跡まで上り、城山の鐘を見学。
延岡の町を見渡すことができ、有馬直純もここから城下を眺めたのかと思うと感激しきりです。

城山の鐘。

そして天守台跡から下りて二の丸、三の丸跡へ。
二の丸にあるのが有名な「千人殺しの石垣」で、礎石を外すと石垣全部が崩れ落ちて千人の敵を倒すことができるといわれる高さ19mの石垣です。
大迫力の石垣で感激しました。この仕組みを造った高橋元種公はかなりの築城の名人だったのではないでしょうか。

千人殺しの石垣

三の丸跡はこんな感じです。

三の丸跡

北大手門を上から撮っています。

平成4年に復元された北大手門。

敷地内には桜の木がたくさんあり春のお花見スポットとして市民に親しまれているそうで、いつか桜の季節に行ってみたいなぁ、と思いました。

この後、2代藩主の有馬直純の妻、国姫(日向御前)が、女人禁制だったのを側近の制止を振り切って登ってしまったという"お転婆"エピソードのある愛宕山にも上ってみましたが、凄い霧で景色は見えず…残念でした。

この国姫、キリシタンだった直純と結婚するも自身は浄土宗の熱心な信者でキリスト教に改宗することもなかったそうですが、将軍家の姫だから有馬氏も改宗を強制できませんよね…。当時の有馬領はキリスト教が盛んな"キリシタン王国"だったので、国姫の立場からすれば有馬の地は過ごしにくかったのかもしれません。延岡でのエピソードは、屈託のないのびのびとした国姫の姿を表しているように思います。
(以前、千々石ミゲル墓所発掘調査で知られる大石一久先生の講演で聴きましたが、キリシタン王国とはどういうものかというと「暦から行事から全て教会のものに従う」そうなので、有馬領は当時の日本人の生活環境とはかなり異なる環境ではなかったかと想像しています。)

延岡といえば旭化成のイメージが強かったのですが、城下町の面影も確かに残っており、訪問してよかったと思いました。
次の機会があるならば、ぜひ天気の良いときに訪問したい!です。
では、長々とお読みいただきましてありがとうございました。


*延岡観光協会のHPはこちら。


*私が書いた国姫に関する過去のnote記事はこちら。

https://note.com/tai_yuka/n/n0e765d772588?sub_rt=share_pw


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