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芥川賞作家が考える、小説と日記の違いについて/ 「やがて忘れる過程の途中」 滝口悠生

「やがて忘れる過程の途中」は、小説家・滝口悠生さんがアイオワに滞在した3か月の日記を本にしたものです。

いろんな国から三十名ほどの作家が参加する、アイオワ大学のインターナショナル・ライティング・プログラム(IWP)という滞在プログラムに呼んでもらった。アメリカに来たのは初めて。

「やがて忘れる過程の途中」

「あとがき」に、日記と小説の関係性について書かれた箇所があって、それが非常に興味深いのです。小説家が小説を書くとき、記憶をどのように扱っているのか、少しだけ読者に分けてもらえたような気持ちになります。

 日記を書くということ。ある日の出来事を、その日付のもとに記録すること。そのいいところも、よくないところもあると思う。
 一日の出来事のなかには、日記にしか書けない事柄がたくさんある。日記に書かなければ、もう書きとめられることはない事柄を、日記は言葉で留め置くことができる。

あとがき

このあと、滝口さんは、「一方で、日記には書けない事柄もある。」と続けます。

時間が経って、多くのことが消え失せたあとで、その日をどうにか取り戻そうと願うように記される言葉は、日記とは別のかたちで出来事を記録する。そして小説は、そういう言葉で書かれるものだと思う。

あとがき

本文に登場する滝口さん本人はリアルタイムを生きています。今日の私たちと一緒で、今、どのあたりにいるのか、これから何が起こるのか、分かりようがない中で手探りで進むしかない。

途中、地震やハリケーンが起こります。これらのことはうっすらとした予感はあるものの、いつも突然です。そういう日々を私たちは暮らしている。そのリアルタイムの不確かさを、その時の自分が書き記しているのが日記だと、作者は言っているのだと思うのです(この2年後、コロナが流行します)。

しかしだんだんと、小説的だとも思えてきます。もしかしたら、これを読んでいる時点でこれらの出来事は「すでに終わって」いて「客観」が入ってきているからかもしれないと、個人的には思います。登場するライターたちも、それぞれのキャラクターや背景がドラマチックで、小説的な人物像に見えなくもない。日記はストーリー性を帯びて、読者を巻き込みながら、緊張は高まり出口へと向かっていきます。

滝口さんは、日記と小説の違いについて触れたあと、こうも書いています。

でも、小説とはなにかなんて、ちゃんと指し示すことができるわけでもないのだから、いま自分が思っている小説とは違うかたちを見つけたら書けるのかもしれないし、実際、この日記を書いているときにも、小説を書いているときと同じような感じになることが何度もあったから、日記と小説というのはそんなに違うものでもないのかもしれない、

あとがき

私は、作者が小説の人だからかもしれないと思いました。小説を書く人として、日々を感じ、観察しているのかなと。しかし重要なのは、作者にとっての「書くことの意味」の方なのではないか …

質問は、What is the writing for you ? (あなたにとって書くこととは?)というシンプルなものだった。それに私は、不在のものやひとを思い出すこと、と答えたのだったと思う。 

(p85)

「思い出す」という行為と「書く」という行為が、(作者にとって)近しい関係だと分かります。この日記の中に登場するライターたちは、様々な国から参加していてそれぞれの背景も書く意味も違います。

自分はなぜ書くのか、どんな行為と近しいのか。

それは「自分にとって大切なものは何か」問われていると同じようだ、と感じました。


ここまで読んで下さり、ありがとうございました。

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