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同じ時、同じ場所で遊んでいた兄弟だけど。|記憶と自分らしさについて

私の兄は、色んなことをよく憶えているタイプの人です。先日も、突然電話がかかってきて「飼っていたリスが逃げた時のことを憶えているか?」と聞いてきました。

そう聞かれて、当時住んでいた家のベージュの重いドアが半開きになっている場面とその半開きに気づいたと同時に「逃げた!」と認識した自分の意識、また、そのドアを半開きにして帰った犯人である母の友人達への日ごろから面倒くさく思っていた感情も思い起こされてきました。

兄は母と会話をしている中でこの事件をたまたま思い出し、母が憶えていないみたいだという事で妹の私に確認の電話をしてきたのでしょう。記憶力が悪い私が憶えているくらいなので、兄にしてみればもっとリアルな感覚で「憶えていないなんてありえない」と思ったのだと思います。

ところで以前、一歳差の兄弟から同じ時期の同じ出来事について別々にその記憶を聴いたことがあります。その兄弟は共に50代です。

それは子どもの頃にセミ採りをしたという話で、お兄さんの方はどこで誰とどの様にセミ(の幼虫)を採って、その後、セミが羽化するのを見守り外に逃がしたかまでをこと細かく時系列に話してくれました。楽しかったよと。

一方、弟さんの方はセミ採りに行くまでの友達との冒険談について話してくれました。その冒険談の内容は、後ろめたかった・怖い目に遭ったという「気持ち」が主で、セミ自体のことや採った後のことについては全く憶えていませんでした。ちなみに、この兄弟は当時友達も含めて一緒にセミ採りに行っています。

この二人の話を聴いて心の方向性の違いで同じ場面の記憶でもこんなにも別々のエピソードを思い起こすのかと驚きました。

そして、もう一つ、もっと驚いたのは兄弟それぞれの記憶とそれぞれの人生の歩みが近しい質(傾向)を持っているということ。

なんとなくですが、それらの記憶はその人らしいよねっていう感じなのです。「記憶」が先か「その人らしさ」が先か。

出来事はその瞬間だけですので、過ぎてしまえば記憶としてしか保持されません。記録媒体は様々ありますが記憶の想起に使われるだけで、その出来事自体は消えていくものです。その記憶の編集は、私たち(心)それぞれに任されています。

その記憶が事実かどうか曖昧であるのが記憶の特性です。その曖昧さの中にその人らしいエッセンス(本質)が含まれる隙間があるのかもしれません。

「記憶とその人らしさ」の組み合わせ。今日書いたのは、セミ採りの場面だけでしたが人生はこのような出来事の積み重ねです。人生が一冊の楽譜だとしたら「記憶」はきっと音符で、音符の連なりで生まれるメロディが「私らしさ」なのではなかと考えています。

記憶は、その人が大切にしてきたこと、頑張ってきたこと、楽しかったこと、たくさんのことを教えてくれます。


ここまで読んで下さり、ありがとうございました!

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