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『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』覚書き

マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』読了。いつか読まねば、と思っていた古典をようやく読み終えた。

ヴェーバーは近代資本主義の源泉を禁欲的プロテスタンティズムに求める。すべてを理解したわけではないので読み違えもあるかもしれないが、以下、要約。

プロテスタンティズムの絶対的な神の前において、その人間が救われているかそうでないかはあらかじめ決められている。人間の努力によって、神の決定を覆すことなど到底できない。自分が選ばれているのかそうでないのか、ひとり不安の中にたたずむ人間は、自らが選ばれた者であるという確証を得ようと、二つの方法をとる。一つは、選ばれたものであるという確信に満ちた態度をとる。もう一つは、神によって与えられた天職に徹底的に打ち込むことで、自分が神の意志に沿う者であることを自らに証明しようとする。

こうして、救済の証明を手にしようと世俗の世界において天職に没頭するとき、彼または彼女のすべての行動は神の意向を讃えることに注がれる。ここでは、自らの享楽のために仕事をすることなどありえない。当然ながら、仕事によって得られた財が、自分のための消費活動によって失われることもない。ストイックに仕事をすることによって財が蓄積されていく、しかしそれが消費に回ることはない。その時、そこに資本が蓄積されていく。

特に印象深かったのはこの辺り。前段の神の超越性について。

神が、ここでは、永遠の昔から究めがたい決断によって各人の運命を決定し、宇宙のもっとも微細なものにいたるまですでにその処理を終え給うた、人間の理解を絶する超越的存在となってしまっている。神の決断は絶対不変であるがゆえに、その恩恵はこれを神からうけた者には喪失不可能であるとともに、これを拒絶された者にもまた獲得不可能なのだ。
この悲愴な非人間性をおびる教説が、その壮大な帰結に身をゆだねた世代の心に与えずにはおかなかった結果は、何よりもまず、個々人のかつてみない内面的孤独化の感情だった。宗教改革時代の人々にとっては人生の決定的なことがらだった永遠の至福という問題について、人間は永遠の昔から定められている運命に向かって孤独の道を辿らねばならなくなったのだ。

『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』大塚久雄訳

この部分の、人間の圧倒的な孤独が資本主義形成に至る諸活動を生み出す原動力だった、という点には何となくリアリティを感じる。同時に、フランスに住んでいたころの感覚を思い出すとき、ヨーロッパ的な世界に身を浸してこの本を読むのと、日本において翻訳を通してこの本を読むのでは、その論理的展開の迫り方が違うだろうな、ということも感じる。やはり日本で読むと、かの国の物語、という若干の距離感が否めない。こうなると、古来から続く日本人の仕事観を分析した研究、というのを読みたくなってくる。

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