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東浩紀『訂正可能性の哲学』覚書き

東浩紀『訂正可能性の哲学』読了。現代、および未来の社会を考えるにあたり、大変刺激的な論考が展開されており、面白かった。この本に影響されて、現在ルソーの『社会契約論』を読みはじめている。

人工知能が発達し、やがて人間の能力を追い越すシンギュラリティが到来する。そのとき、社会はもはや人間が統治するものではなく、人工知能が統治する、あるいは人工知能に全てを委ねた方がより最適な社会が実現する。そのような楽天的な思想は、新しいように見えて、実はルソーの一般意志の表面的な焼き直しに過ぎない。ルソーが抱えていた思想上の様々な問題は、歴史を振り返る時、例えばカール・シュミットに継承され、ナチス誕生を後押しした。ただ、ルソーの著作全体を丁寧に読むとき、一般意志は全体主義に単純に接続されるものではない。一般意志は訂正可能性へと開かれており、そのような文脈において、真摯に向き合い、再考するに値するものである。

社会と個人の関係、あるいは権力と自由について考えるにあたり、著者の基本的なスタンスは下記の部分に集約されているように思われる。

現実に生きるぼくからすれば「ぼく」と「ぼくに似た人々」は大違いだ。後者がいくら死んでもぼくの人生に影響はないが、前者が死んだら終わりだ。人間は統計の一部ではなく、固有の生を生きている。ひとは一回しか生きることができないし、一回しか死ぬことができない。少なくともほとんどのひとはそう感じている。これは理念や哲学の問題ではなく、いま人間が実際にどう感じどう生きているかという、きわめて具体的な現実の話である。  
したがってぼくは、人間の社会について考えるにあたり、その「私」という固有性の感覚に直面しない思想は、すべて原理的な欠陥を抱えていると考える。

東浩紀. 訂正可能性の哲学 ゲンロン叢書 (p.229). 株式会社ゲンロン. Kindle 版.

「『私』という固有性の感覚」をどのように捉えるか、ということがポイントになるんだろうな、と思う。学生時代の研究対象だったアントナン・アルトーやベイトソンを読むと、あるいはこれまでの経験からも、「私」の固有性は必ずしも自明でない。ただそれは、個人の問題であり社会全体に拡張すべきものでもないが。社会を現実に構築していく際にはこの固有性を基盤にすべきだとは思う。


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