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ベイトソン『精神の生態学へ』覚書き part 4

グレゴリー・ベイトソンの『精神の生態学へ』、ようやく読了。今回は岩波文庫版の下巻を中心に、覚書き。

下巻の中心はなんといってもサイバネティクス。サイバネティクスは循環する自己修正的なモデルであり、その好例としてガバナー付きのエンジンが挙げられる。

ガバナーつきのエンジンを、出来事の因果のサイクルという見地から見ると、そこにはある点における増加が、回路の次の点での現象を引き起こすように連結している箇所があります。ガバナーのアームが開くほど、入ってくる燃料の量が少なくなる。こういう形で結びついた因果のサイクルが、エネルギーの供給を受けて作動するとき -- 運よく帳尻があっていればのことですが -- 誤りをみずから補正する自己修正的なシステムができることになります。
ウォレスはここで、他の誰にも先駆けて、サイバネティクス・モデルを提唱したのでした。

「目的意識 対 自然」より

サイバネティクスはガバナーのエンジンにとどまらず、あらゆる現象に適用される。だからこそ、世界に目を向ける際には、全体から切り離された一部分があると考えるのではなく、システムの全体性にホリスティックな眼差しを注がなければならない。その認識なく行動する時、システムは崩壊する。例えば人間と自然。人間と自然は元来、互いに密接に絡み合いながら大きなシステムを織りなしていた。ところがあるとき人間は自らを自然から切り離す。人間は自然の支配者として振る舞いはじめ、その身勝手な行動の影響はシステムが持っていた自己修正的な柔軟性の限界を超える。その結果、いまや人間自身も生存できないほどにシステムは崩壊しつつある。

サイバネティクスは、「わたし」という概念そのものにも揺さぶりをかける。「わたし」とは世界から切り離された、皮膚の内側によって完結する一つの存在ではない。「わたし」は「わたし」と世界が織りなす大きなシステムの一部である。情報が循環するこのシステムのことをベイトソンは「精神」と呼ぶ。

サイバネティクスで考える一個の内在する精神とは、身体だけに内在するのではなく、体外の伝達経路やメッセージを含めた全体に内在する。そしてこれら個々の精神をすべてサブシステムとして組み込んだ、大文字の<精神>Mindが存在する。この<精神>は神にもたとえられるもので、実際この大いなる生命圏を神と崇めている人たちもいるようですが、これはあくまでも、相互につながり合った社会システム全体とこの惑星のエコロジーに内在する神であります。

「形式、実体、差異」より

サイバネティクス、あるいは「精神」には様々な階層がある。一つの循環するシステムが上位のシステムの要素になり、そのシステムがさらに上位のシステムの要素になり、というように、階層はどこまでも上昇していき、やがては世界全体を覆い尽くす。「わたし」とはこのような重層的なシステムの一部に過ぎないのだが、近代的自我に浸かってきた個人がこのシステム群、あるいは「精神」の全体像を掴むことは難しいだろう。多くの層が織りなす「精神」の認識を可能にするもの、それこそ芸術に他ならない。

ヨハン・セバスチャン・バッハにまつわる逸話をご紹介しましょう。あなたの奏でる音楽はどうしてそんなに神々しいのかという質問に彼はこう答えました。--「わたしは楽譜にある通りを引くだけで、音楽は神が奏でられる。」しかし、この正しい認識を自分のものにできる人間は、そう多くありません。<詩的想像力>が唯一のリアリティであると述べたウィリアム・ブレイクは、その数少ないうちの一人でしょう。(中略)
芸術家は、精神の多くのレベル -- 意識的なもの、無意識的なもの、外在するもの -- を一つにまとめあげ、その複合体を表現する「腕」を持っている。一つのレベルを表現するのではありません。

「形式、実体、差異」より

「わたし」が大文字の「精神」の一部となるとき、「わたし」の死もその様相を変える。「わたし」の身体が消滅しても、「わたし」の情報は「精神」の中を巡り続ける。「形式、実体、差異」の最後で少しだけ触れられたこの考察は、今後さらに深めていきたい。なんとなく、アーサー・C・クラークの『地球幼年期の終わり』を思い起こさせる部分でもある。

ということで、長きにわたったベイトソンとの日々も終了。生成AIによって新たなサイバネティクスが生み出されるなか、大文字の「精神」はどのようにアップデートされうるのか、そのなかで「わたし」とはどのような変貌を遂げるのか、更新された「精神」にアクセスする手段としての芸術の今後の可能性としてどのようなものがありうるのか、など、様々な問いかけが浮かぶ。次はオブジェクト指向オントロジーに向かいます。

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